米国大使
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/13 15:24 UTC 版)
「リンカン・マクヴェーグ」の記事における「米国大使」の解説
1933年、フランクリン・ローズヴェルト大統領はマクヴェーグを駐ギリシャ特命全権公使に任命した。信任状の奉呈後、彼は古代ギリシャ語で演説した。1941年6月5日までアテネに駐在した。その数ヶ月後、ドイツ軍がギリシャを侵略した。 第二次世界大戦初期の1940年、ドイツがアイスランドを先に制圧するのを恐れたイギリス軍はアイスランドに侵攻し、占領した。1941年7月、アイスランド・米国の両政府は、米国がアイスランドの防衛に責任を持つことで合意した。1941年8月8日、ローズヴェルト大統領は初代駐アイスランド米国大使としてマクヴェーグを任命し、米国とアイスランドとの微妙な関係の処理に当たらせた。彼は1942年6月27日までレイキャヴィークに駐在した。 この頃ローズヴェルト大統領は、彼を駐南アフリカ連邦特命全権公使に任命した。彼は1942年5月21日から1943年11月21日までプレトリアに駐在し、同地における米国の戦時諸機関の調整に貢献した。 1943年11月12日、ローズヴェルト大統領は微妙な外交関係を処理した経験を持つマクヴェーグを再び呼び出した。大統領は、ギリシャ及びユーゴスラヴィアの亡命政府の大使として彼をカイロに派遣した。ギリシャ解放後の1944年10月27日、マクヴェーグはアテネの大使館に移った。カイロの大使館は、1944年11月8日に閉鎖された。 1947年、議会に対する秘密の証言を行い、バルカン諸国におけるソ連の庇護を受けた極左運動の危険性を明かした。この証言は、トルーマン・ドクトリンとして知られるようになった政策において重要な要素と考えられた。トルーマン・ドクトリンは、ギリシャとトルコがソ連の勢力圏に落ちるのを防ぐため、米国が経済・軍事援助を行うとしていた。マクヴェーグは、戦後のギリシャ政府が民主的政策を追求するのを支援した。 ギリシャ駐在中、マクヴェーグはアクロポリスの発掘調査を実施し、アテネ国立考古学博物館に考古学的貢献をした。最初の妻マーガレットと共に、『ギリシャの旅 (Greek Journey) 』という子供向けの本を著した。アテネ駐在中、妻が死亡した。彼は1947年10月11日にアテネを離れた。 1948年4月8日、トルーマン大統領はマクヴェーグを駐ポルトガル大使に指名した。リスボン駐在中、ポルトガルをNATOに加盟させる上で貢献した。1952年2月26日までリスボンに留まった。 1952年、トルーマン大統領から駐スペイン大使として再び奉職するよう要請され、マドリードで1年間勤務した。
※この「米国大使」の解説は、「リンカン・マクヴェーグ」の解説の一部です。
「米国大使」を含む「リンカン・マクヴェーグ」の記事については、「リンカン・マクヴェーグ」の概要を参照ください。
- 米国大使のページへのリンク