服役と釈放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 00:19 UTC 版)
「宮澤弘幸・レーン夫妻軍機保護法違反冤罪事件」の記事における「服役と釈放」の解説
レーン夫妻は、しばらく北海道内で服役した。すでに父ヘンリーは1942年(昭和17年)2月に死去しており、双子の姉妹は同年6月の第1次交換船でアメリカへと送還された。夫妻も交換船に乗るべく横浜に移送されたものの、突然変更されて札幌に戻された。ふたりの帰国は、1943年(昭和18年)9月の第2次交換船まで待たねばならなかった。懲役期間の途中で解放された公的な理由は明らかではないが、アメリカ側で拘束された日本人スパイの身柄との交換だったのではないかと言われている。 一方、宮澤は網走刑務所で服役した。蟹錠や逆さ吊りなどの拷問を受け、弁護士から妥協を勧められても、宮澤は決してスパイの嫌疑を受け入れようとはしなかった。母親は、息子が逮捕された理由を北大総長(当時)の今裕に問い合わせたが、協力を拒否された。母親は毎月3分間の面会のために網走へと通い、妹の美江子も同行することがあった。 1945年(昭和20年)6月、宮澤は宮城刑務所へと移監される。終戦後の同年10月、GHQからの指令を受けた日本政府は、思想犯として収容されていた宮澤を釈放した。宮澤は1945年12月8日付で北大に復学願を提出し、さらにアメリカへの留学も考えていた。しかし彼の体は結核に侵されており、一連の事件の真相を明らかにするという望みも果たせないまま、1947年(昭和22年)2月22日、27歳で没した。
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