服役〜晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 21:51 UTC 版)
「ジーン・ハリス (教育者)」の記事における「服役〜晩年」の解説
有罪判決を受けたジーンはただちに、ニューヨーク州のベッドフォードヒルズ刑務所に収監された。裁判所での判決時に判事は、「ジーンが有能な女性として受刑者の力になると信じている」との旨を述べた。その言葉通り、服役中のジーンは刑務所改革運動に尽力し、刑務所での時間の大部分をボランティア、執筆、読書に費やした。 ジーンは教員としての経験により、受刑者が釈放後に職に就けるよう、教育が不十分な者、虐待を受けている者に対し、高卒相当の資格を得させるために個人的に教育を施した。子供のいる受刑者のための配慮として、育児センターの手伝い、子供たちの奨学金のための資金を調達。受刑者の子供が面会に来たときに母子が共に遊ぶことのできる施設「チルドレンセンター」の開設にも尽力した。 また文学的才能もいかし、受刑者が子供から送られた手紙をまとめたものや、受刑者たちの過酷な状況、服役中の体験を綴った自伝などを執筆し、『They Always Call Us Ladies』(1988年)、『STRANGER IN TWO WORLDS』(1986年)など計3冊の書籍を刊行した。これの内『They Always Call Us Ladies』では、鋭い観察眼と熱い語り口により、刑務所の歴史と犯罪の社会的かつ経済的原因について詳しく論じ、刑務所内の生活を鮮やかに浮き彫りにした。1988年にはABCテレビの番組に出演し、受刑者たちの悲惨な扱いを訴えた。 一方でジーンは、刑務所の受刑者にとっては異色の存在といえた。最重警備刑務所であるベッドフォードヒルズ刑務所では、面会室でもアクセサリー着用を禁じられていたが、ジーンは雑誌社の面会では「写真を撮るならネックレスをつける」と言って真珠のネックレスを着用した。懲戒処分を受けた数は誰よりも多かった。またターノワー殺害の疑惑については「悪いことをした」と認めながらも、「計画的殺人ではない」と主張し続けた。前述の著書『STRANGER IN TWO WORLDS』でも、公判で認められることのなかった無罪の主張を改めて繰り広げた。1982年のABCテレビの獄中インタビューに対しては、ターノワーへの愛を涙ながらに訴えていた。 1992年、心臓バイパス手術を受けることになったため、当時のニューヨーク州知事であるマリオ・クオモから恩赦を受け、翌1993年に釈放された。2012年12月23日、コネチカット州ニューヘイブンの老人施設で、満89歳で死去した。マデイラ・スクールは「ジーンは受刑者の女性たちとその子供たちに多大な貢献をした」と称え、その死を悼んだ。
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