服役生活
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松吉は警視庁の取り調べに対し、強盗65件、窃盗29件、計94件を自白。翌1930年(昭和5年)12月18日、東京地方裁判所で結審し、求刑通り無期懲役を言い渡される。松吉は控訴することなく刑に服し、小菅刑務所行きとなった。獄中で井上日召(右翼団体血盟団の指導者)や、河上肇(マルキスト)らと出会い、左右両翼の大物から諭されて、文字を習ったという。1937年(昭和12年)支那事変の勃発に伴い、戦時統制下に入ると婦人会から帝都に危険人物である説教強盗を留めるなとの要望があったため、松吉の身柄は仙台刑務所に移された。半年後には小菅に戻されたが、さらに新潟刑務所・秋田刑務所に転々と移された。
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服役生活
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「京都・大阪連続強盗殺人事件」の記事における「服役生活」の解説
廣田は同年3月26日から1984年8月29日まで、4年5か月24日間(未決勾留日数を除く)にわたり、加古川刑務所に服役した。満期は1985年(昭和60年)8月29日で、府警が加古川刑務所に確認したところ、1983年(昭和58年)5月26日に「満期まで仮釈放はない」という公式な返答を得ていた一方、裏ルートで調べたところ、「出所近し」の情報も入手していた。廣田は仮出獄許可決定を受け、1984年8月30日に出所していた。服役中、廣田はボイラーマンの2種免許(乙種)や危険物取扱主任(乙種)の資格を取得し、簿記・そろばんに励むなど、成績は「良好」とされていた。仮釈放が認められた理由は、「引受人として成東町に家族がいる」「委員会での面接調査で改悛の情、更生の意欲が確認できた」の2点で、廣田が公判中に『人民新聞』に警察への復讐の念を書き綴った文章を投稿したり、刑務所内で待遇改善を求める闘争を続けていた事実は、刑務所側から近畿地方更生保護委員会には報告されていなかった。一方、廣田は同房者に対し、「西陣署に仕返ししてやる」と漏らしていた。捜査関係者は、廣田が真面目に服役していた理由について「早く出所して早く(京都府警に)復讐しようという計算のためではないか」という推論を述べている。
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