麻薬、そして母の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:59 UTC 版)
「ビリー・ホリデイ」の記事における「麻薬、そして母の死」の解説
これに続く数年間、ビリー・ホリデイは録音や契約を増やし、成功への道を歩み続ける。ロイ・エルドリッジ、アート・テイタム、ベニー・カーター、ディジー・ガレスピーなど多くミュージシャンたちとの共演も果たした。一方で彼女は、トロンボーン奏者であり麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母と住む家を出て早々に結婚。モンローは彼女にアヘンやコカインを覚えさせた。 また彼女はやがてビバップのトランペット奏者ジョー・ガイと出会い、ジョーの影響で今度はヘロインにも手を出すようになった。黒人として初めて立ったメトロポリタン歌劇場での晴れやかな舞台でも、デッカと契約を交わしたときも、彼女はガイの支配下にあり、ヘロイン漬けだったと言われる。ビリーは当時を振り返り、「私はたちまちのうちにあの辺で最も稼ぎのいい奴隷の一人になりました。週に1,000ドルを稼ぎましたが、私にはバージニアで綿摘みをしている奴隷ほどの自由もありませんでした」と語っている。 やがてホリデイの周りには「契約を守らない」「よく舞台に遅れる」「歌詞を間違える」といった噂が囁かれ始める。それを払拭するために、1945年にガイはホリデイのために大掛りなツアー『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』を企画するが、巡業が始まってしばらく経った頃、一行の耳にホリデイの母サディの訃報が届き、ホリデイは鬱状態に陥りアルコールと麻薬への依存を深め、結局ツアーは途中で打ち切られてしまった。 1947年、大麻所持により逮捕。その年にモンローとの離婚を機にガイとも別れた彼女は、ウェストヴァージニア州オルダーソン連邦女子刑務所で8ヵ月間の服役生活を送る。その際にニューヨークでのキャバレー入場証を失効してしまい、それから12年もの間キャバレーへの出演ができなくなってしまった。
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