成功への道とは? わかりやすく解説

成功への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:46 UTC 版)

モリエール」の記事における「成功への道」の解説

モリエールにとって『ドン・ガルシ・ド・ナヴァール』の失敗予想外であった。その失敗理由自分喜劇役者として名声にあるのだから、成功するためには喜劇制作するほかない。そうした考え基づいて制作されたのが『亭主学校』である。復活祭休み中から構想練り始め1661年6月24日パレ・ロワイヤルにて初演が行われた。初演成績はあまり振るわなかったものの公演重ねるごとに評判呼び、3か月亘って連続32回の公演を行うなど、前作大失敗吹き飛ばす大成功収めたそれ以上にこの作品重要なのは、『才女気取り以上に王侯貴族たちの関心を惹いたことである。この作品財務ニコラ・フーケルイ14世上演させたことで、モリエール劇団はますます宮廷人気集めていった。 この当時財務フーケは、1661年3月亡くなったばかりの宰相ジュール・マザラン後釜狙っていた。そのためには王の歓心を買い、自身存在感より一層際立たせる必要がある。そのために思いついたのが、居城であるヴォー=ル=ヴィコント城にて豪勢な祭典開催することであったフーケこのように考えていたところに、ちょうどタイミングよく『亭主学校』が成功収めたのであるモリエール劇団人気急上昇中の、まさに今話題劇団であるのだからこれ利用しない手はない。こうしてフーケは、王のために上演させる『はた迷惑な人たち』をモリエールに作らせたのである国王は、このフーケ祭典の数か月前に四季バレエ』なる演劇祭典を催していた。この祭典国王は「春」に扮してバレエ踊った。冬を乗り越え、春がすべての自然の生命生まれわらせるように、王の力で新しフランス作られるこれから自身の力で永遠に続く春を実現するのだというメッセージ発するためである。フーケはこのメッセージ読み違え国王祭典凌駕する豪勢な規模のものを開いてしまった。結局フーケ国王不興買って間もなく逮捕され失脚してしまった。 主催者このような顛末をたどることになった祭典において、1661年8月17日に『はた迷惑な人たち』は初演が行われた。本作コメディ・バレ第1作目である。フーケのことは気に入らなかった国王であったが、本作についてはずいぶん気に入ったようで、同月フォンテーヌブロー宮殿劇団呼び寄せて再び上演させている。本作の「国王陛下への献辞によればモリエールは王が提案した人物新たに書き加えて戯曲中心に組み入れ、ますます出来良くなったとのことである。同年11月14日には市民向けてパレ・ロワイヤルにて本作公開された。国王陛下をはじめ、貴族たちに大評判をとったという本作評判パリ市民たちの好奇心刺激し、彼らは期待募らせていたのだった音楽舞踊喜劇合わせたこの作品は、演劇的な要素をすべて盛り込んだ総合的なスペクタクルであったこれまでの演劇にはない新しさ持った本作公演大盛況で、39連続公演記録した。こうして、成功のうちに1661年度のシーズンは幕を下ろした前年の1.7倍の興行収入挙げている。 モリエールアルマンド結婚契約書 1662年1月23日アルマンド・ベジャール結婚契約書交わした画像その際のものであるモリエール40歳アルマンド20歳であったアルマンドは、そもそも誰が両親なのかよくわからない伝わっていないということ女性である。マドレーヌ・ベジャールの関係と、父親は誰であるかという問題巡ってモリエール生前から長年亘って議論が行われてきた。同時代の人々マドレーヌアルマンド親子として考えていたようで、問題となっていたのは「父親は誰なのか?」という点のみであったもし仮に父親モリエールであるならば、すなわちそれは近親相姦の罪を犯しているということである。現在でも罪となる近親相姦であるが、17世紀当時は「神と人に対す大逆罪」であり、火あぶりの刑になってもおかしくないほどのものであった。当然この点は、モリエール敵対者たち格好材料与えることになったルイ14世によってモリエールそのような疑いがないことは公式に示されたが、それでも攻撃やまなかった。。 復活祭休み終えて1662年シーズン明けたが、とくに新作上演予定もなく、客足伸び悩んだ市民向けの公演低迷したのと対照的に国王劇団へ関心は高まるばかりであった劇団国王招聘受けて5月上旬6月下旬に、サン=ジェルマン=アン=レー城赴いて公演行っている。特に6月下旬御前公演では、モリエール劇団演劇祭典の主導権与えられている。この演劇祭典の主導権は元々ブルゴーニュ座やイタリア人劇団与えられいたもので、モリエール劇団にとってはこの上ない栄誉であったラ・グランジュの『帳簿によれば主導権奪われブルゴーニュ座は焦って皇太后懇願し、この祭典参加したとのことである。 モリエールパリ戻ってからも、客足伸ばすためにあれこれ試したが、さほど効果挙げられないまま時が過ぎていった。観客モリエール新作求めていたのである年末12月26日になってようやく、新作である『女房学校』の初演行った。この作品成績滑り出しから絶好調で、その好調維持したまま翌年復活祭までに31連続上演が行われるなど、モリエール生涯獲得した成功中でも、もっとも輝かしいものであった。こうして、華々しい大成功のうちに1662年度のシーズン終えた。これに続く復活祭休暇の間に、モリエール国王から年金1000リーヴル与えられ、その感謝を示すために『国王陛下に捧げる感謝の詩』を詠んでいる。『女房学校』の大成功によって、モリエール演劇界にその名を轟かせ不動地位獲得する至ったのである。この『女房学校』および、モリエールのわずか数年でのパリ宮中における大成功は、当然ながら同業者たち嫉妬心激しく炙りたてた。 「女房学校批判」および「ヴェルサイユ即興劇」も参照 1663年になって、『女房学校』の内容巡ってモリエール作家たちの間で論争起こった喜劇の形を借りて応酬特徴的なこの論争は「喜劇戦争」とも言われる。以下は、この論争辿った経緯簡潔に記したのである1月ニコラ・ボアロー=デプレオー、『モリエール与える詩』でモリエール擁護2月ジャン・ドノー・ド・ヴィゼ作品『ヌーヴェル・ヌーヴェル(Nouvelle Nouvelle)』にて攻撃6月モリエール女房学校批判』にて反駁演劇対す自説主張。この自説コルネイユ兄弟らの怒りを買う8月ヴィゼ『ゼランド、またの名を真の女房学校批判』で再び攻撃10月、ブールソー参戦。『画家の肖像』にて攻撃同月モリエールヴェルサイユ即興劇』で再度反駁。これ以後論争応じない宣言11月ヴィゼヴェルサイユ即興劇への返答、あるいは侯爵達の復讐』で攻撃同月オテル・ド・ブルゴーニュ座俳優モンフルーリの息子アンソニー、『コンデ公爵邸での即興劇』にて攻撃1664年3月、フィリップ・ド・ラクロワ(Philippe de Lacroix)、『喜劇戦い,またの名を女房学校弁護』にて擁護論争終結1663年3月に『女房学校』のテキスト出版された。この序文において「(敵対者たち攻撃答え芝居を)いったん書き始めてやめてしまったが、毎日完成はまだかと催促を受けるのでどうしよう迷っている。もしこの対話劇上演する機会があればいいと思う」として、新作発表匂わせた。復活祭休暇明けてからも、まるでじらすかのように女房学校ならびに新作の上演は行われず6月1日になってようやく新作である『女房学校批判』の初演が行われた。 この作品モリエール敵対者たち攻撃答えてやり返す内容であったため、『女房学校』の後ろくっつけて上演することでより一層効果生んだこの上方法や、観客興味を数か月前に煽って期待させたことが功を奏して同作品は『女房学校』に迫るほどの成功収めたが、敵対者たちは当然激昂し、ますます攻撃強めていった。ところがこの論争勝者は、初めからモリエールであることが決まっているようなものだった国王彼の後ろ盾となっていたからである。10月にブールソーの『画家の肖像』が初演され間もなくモリエール劇団国王招聘受けてヴェルサイユ宮殿に赴き、公演を行う機会与えられた。ここで初演されたのが『ヴェルサイユ即興劇』である。『ヴェルサイユ即興劇』は「『女房学校ならびに女房学校批判』を擁護する芝居を書くよう王に依頼された」という体をとる作品で、モリエールはこの作品においても、敵対者たち散々挑発した。特にこの作品同月公開された『画家の肖像』の作者、ブールソーへの攻撃次のように激烈である。 ド・ブリー嬢:でも、私ならあのへなちょこ先生芝居にして見せますわ。誰もあの人のことなんか考えてもいないのに、当たり散らしているんですもの。モリエールどうかしてるぜ?あんたは!ブールソー先生なんかを題材にして宮中成功する作品書けるものか!どうやったらあの先生おかしな人物にできるか、ちょっと伺いたいものだね!あれを舞台上げて揶揄することができたら、お客笑わせるだけで本人は満足だろうよ。高貴な人々の前であの先生演じられたら、面目が立ちすぎるぜ、それこそ願ったり叶ったりだろう!手段選ばずに楽して有名になろうと思って喜んで私を攻撃するんだ。あの先生は何も損はしないのだ。(中略)もし、何か彼らの儲けになるなら、私は喜んで、私の作品姿かたちも(略)そっくり渡してやろう。その代わりに(略)彼らの喜劇で私の人身攻撃に渡るような問題触れてらいたくないのだよ。 同時に、この作品において「これ以上時間無駄にするつもりはない」として、論争から下りることをも示したが、それでも攻撃は止まなかった。ブルゴーニュ座で悲劇俳優として有名であったモンフルーリは、国王に「自分の娘と結婚して近親相姦の罪を犯している」としてモリエール訴え調査懇請したが、国王取り合わなかった。それどころか、1664年2月生まれたモリエールの子供の名付け親となり、国王夫妻揃って代父母となるなど、自身モリエール後ろ盾であることを世に広く知らしめたのだったちなみにこの際生まれた息子は、国王から名前をもらってルイ」と名付けられたが、夭折している。

※この「成功への道」の解説は、「モリエール」の解説の一部です。
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