成功への道
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モリエールにとって『ドン・ガルシ・ド・ナヴァール』の失敗は予想外であった。その失敗の理由が自分の喜劇役者としての名声にあるのだから、成功するためには喜劇を制作するほかない。そうした考えに基づいて制作されたのが『亭主学校』である。復活祭の休み中から構想を練り始め、1661年6月24日、パレ・ロワイヤルにて初演が行われた。初演の成績はあまり振るわなかったものの公演を重ねるごとに評判を呼び、3か月に亘って連続32回の公演を行うなど、前作の大失敗を吹き飛ばす大成功を収めた。それ以上にこの作品が重要なのは、『才女気取り』以上に王侯貴族たちの関心を惹いたことである。この作品を財務卿ニコラ・フーケやルイ14世が上演させたことで、モリエール劇団はますます宮廷で人気を集めていった。 この当時、財務卿フーケは、1661年3月に亡くなったばかりの宰相ジュール・マザランの後釜を狙っていた。そのためには王の歓心を買い、自身の存在感をより一層際立たせる必要がある。そのために思いついたのが、居城であるヴォー=ル=ヴィコント城にて豪勢な祭典を開催することであった。フーケがこのように考えていたところに、ちょうどタイミングよく『亭主学校』が成功を収めたのである。モリエール劇団は人気急上昇中の、まさに今話題の劇団であるのだからこれを利用しない手はない。こうしてフーケは、王のために上演させる『はた迷惑な人たち』をモリエールに作らせたのである。 国王は、このフーケの祭典の数か月前に『四季のバレエ』なる演劇祭典を催していた。この祭典で国王は「春」に扮してバレエを踊った。冬を乗り越え、春がすべての自然の生命を生まれ変わらせるように、王の力で新しいフランスが作られる、これからは自身の力で永遠に続く春を実現するのだというメッセージを発するためである。フーケはこのメッセージを読み違え、国王の祭典を凌駕する、豪勢な規模のものを開いてしまった。結局フーケは国王の不興を買って、間もなく逮捕され、失脚してしまった。 主催者がこのような顛末をたどることになった祭典において、1661年8月17日に『はた迷惑な人たち』は初演が行われた。本作はコメディ・バレの第1作目である。フーケのことは気に入らなかった国王であったが、本作についてはずいぶん気に入ったようで、同月フォンテーヌブロー宮殿に劇団を呼び寄せて再び上演させている。本作の「国王陛下への献辞」によれば、モリエールは王が提案した人物を新たに書き加えて、戯曲の中心に組み入れ、ますます出来が良くなったとのことである。同年11月14日には市民に向けて、パレ・ロワイヤルにて本作が公開された。国王陛下をはじめ、貴族たちに大評判をとったという本作の評判はパリ市民たちの好奇心を刺激し、彼らは期待を募らせていたのだった。音楽や舞踊と喜劇を合わせたこの作品は、演劇的な要素をすべて盛り込んだ、総合的なスペクタクルであった。これまでの演劇にはない新しさを持った本作の公演は大盛況で、39回連続公演を記録した。こうして、成功のうちに1661年度のシーズンは幕を下ろした。前年の1.7倍の興行収入を挙げている。 モリエールとアルマンドの結婚契約書 1662年1月23日、アルマンド・ベジャールと結婚契約書を交わした。画像はその際のものである。モリエール40歳、アルマンドは20歳であった。アルマンドは、そもそも誰が両親なのかよくわからない(伝わっていないということ)女性である。マドレーヌ・ベジャールの関係と、父親は誰であるかという問題を巡って、モリエールの生前から長年に亘って議論が行われてきた。同時代の人々はマドレーヌとアルマンドを親子として考えていたようで、問題となっていたのは「父親は誰なのか?」という点のみであった。もし仮に父親がモリエールであるならば、すなわちそれは近親相姦の罪を犯しているということである。現在でも罪となる近親相姦であるが、17世紀当時は「神と人に対する大逆罪」であり、火あぶりの刑になってもおかしくないほどのものであった。当然この点は、モリエールの敵対者たちに格好の材料を与えることになった。ルイ14世によってモリエールにそのような疑いがないことは公式に示されたが、それでも攻撃はやまなかった。。 復活祭の休みを終えて1662年のシーズンが明けたが、とくに新作上演の予定もなく、客足が伸び悩んだ。市民向けの公演が低迷したのと対照的に、国王の劇団への関心は高まるばかりであった。劇団は国王の招聘を受けて5月上旬と6月下旬に、サン=ジェルマン=アン=レー城に赴いて公演を行っている。特に6月下旬の御前公演では、モリエール劇団が演劇祭典の主導権を与えられている。この演劇祭典の主導権は元々ブルゴーニュ座やイタリア人劇団に与えられていたもので、モリエール劇団にとってはこの上ない栄誉であった。ラ・グランジュの『帳簿』によれば、主導権を奪われたブルゴーニュ座は焦って皇太后に懇願し、この祭典に参加したとのことである。 モリエールはパリに戻ってからも、客足を伸ばすためにあれこれ試したが、さほど効果を挙げられないまま時が過ぎていった。観客はモリエールの新作を求めていたのである。年末の12月26日になってようやく、新作である『女房学校』の初演を行った。この作品の成績は滑り出しから絶好調で、その好調を維持したまま翌年の復活祭までに31回連続で上演が行われるなど、モリエールが生涯獲得した成功の中でも、もっとも輝かしいものであった。こうして、華々しい大成功のうちに1662年度のシーズンを終えた。これに続く復活祭の休暇の間に、モリエールは国王から年金1000リーヴルを与えられ、その感謝を示すために『国王陛下に捧げる感謝の詩』を詠んでいる。『女房学校』の大成功によって、モリエールは演劇界にその名を轟かせ、不動の地位を獲得するに至ったのである。この『女房学校』および、モリエールのわずか数年でのパリと宮中における大成功は、当然ながら同業者たちの嫉妬心を激しく炙りたてた。 「女房学校批判」および「ヴェルサイユ即興劇」も参照 1663年になって、『女房学校』の内容を巡って、モリエールと作家たちの間で論争が起こった。喜劇の形を借りての応酬が特徴的なこの論争は「喜劇の戦争」とも言われる。以下は、この論争が辿った経緯を簡潔に記したものである。 1月、ニコラ・ボアロー=デプレオー、『モリエールに与える詩』でモリエールを擁護。 2月、ジャン・ドノー・ド・ヴィゼ、作品『ヌーヴェル・ヌーヴェル(Nouvelle Nouvelle)』にて攻撃。 6月、モリエール『女房学校批判』にて反駁、演劇に対する自説を主張。この自説がコルネイユ兄弟らの怒りを買う。 8月、ヴィゼ『ゼランド、またの名を真の女房学校批判』で再び攻撃。 10月、ブールソー参戦。『画家の肖像』にて攻撃。 同月、モリエール『ヴェルサイユ即興劇』で再度反駁。これ以後は論争に応じないと宣言。 11月、ヴィゼ『ヴェルサイユ即興劇への返答、あるいは侯爵達の復讐』で攻撃。 同月、オテル・ド・ブルゴーニュ座の俳優モンフルーリの息子アンソニー、『コンデ公爵邸での即興劇』にて攻撃。 1664年3月、フィリップ・ド・ラクロワ(Philippe de Lacroix)、『喜劇の戦い,またの名を女房学校の弁護』にて擁護。論争終結。 1663年3月に『女房学校』のテキストが出版された。この序文において「(敵対者たちの攻撃に答える芝居を)いったん書き始めてやめてしまったが、毎日完成はまだかと催促を受けるのでどうしようか迷っている。もしこの対話劇を上演する機会があればいいと思う」として、新作の発表を匂わせた。復活祭の休暇が明けてからも、まるでじらすかのように『女房学校』ならびに新作の上演は行われず、6月1日になってようやく新作である『女房学校批判』の初演が行われた。 この作品はモリエールが敵対者たちの攻撃に答えてやり返す内容であったため、『女房学校』の後ろにくっつけて上演することでより一層の効果を生んだ。この上演方法や、観客の興味を数か月前に煽って期待させたことが功を奏して、同作品は『女房学校』に迫るほどの成功を収めたが、敵対者たちは当然激昂し、ますます攻撃を強めていった。ところがこの論争の勝者は、初めからモリエールであることが決まっているようなものだった。国王が彼の後ろ盾となっていたからである。10月にブールソーの『画家の肖像』が初演されて間もなく、モリエール劇団は国王の招聘を受けてヴェルサイユ宮殿に赴き、公演を行う機会を与えられた。ここで初演されたのが『ヴェルサイユ即興劇』である。『ヴェルサイユ即興劇』は「『女房学校』ならびに『女房学校批判』を擁護する芝居を書くよう王に依頼された」という体をとる作品で、モリエールはこの作品においても、敵対者たちを散々挑発した。特にこの作品と同月に公開された『画家の肖像』の作者、ブールソーへの攻撃は次のように激烈である。 ド・ブリー嬢:でも、私ならあのへなちょこ先生を芝居にして見せますわ。誰もあの人のことなんか考えてもいないのに、当たり散らしているんですもの。モリエール:どうかしてるぜ?あんたは!ブールソー先生なんかを題材にして宮中で成功する作品が書けるものか!どうやったらあの先生をおかしな人物にできるか、ちょっと伺いたいものだね!あれを舞台に上げて揶揄することができたら、お客を笑わせるだけで本人は満足だろうよ。高貴な人々の前であの先生が演じられたら、面目が立ちすぎるぜ、それこそ願ったり叶ったりだろう!手段を選ばずに楽して有名になろうと思って、喜んで私を攻撃するんだ。あの先生は何も損はしないのだ。(中略)もし、何か彼らの儲けになるなら、私は喜んで、私の作品も姿かたちも(略)そっくり渡してやろう。その代わりに(略)彼らの喜劇で私の人身攻撃に渡るような問題に触れてもらいたくないのだよ。 同時に、この作品において「これ以上時間を無駄にするつもりはない」として、論争から下りることをも示したが、それでも攻撃は止まなかった。ブルゴーニュ座で悲劇俳優として有名であったモンフルーリは、国王に「自分の娘と結婚して、近親相姦の罪を犯している」としてモリエールを訴え、調査を懇請したが、国王は取り合わなかった。それどころか、1664年2月に生まれたモリエールの子供の名付け親となり、国王夫妻揃って代父母となるなど、自身がモリエールの後ろ盾であることを世に広く知らしめたのだった。ちなみにこの際生まれた息子は、国王から名前をもらって「ルイ」と名付けられたが、夭折している。
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