成功の終焉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 03:10 UTC 版)
鎌倉幕府が成立すると、幕府が御家人の官職を推挙する原則を確立しようとした。源頼朝は、在京御家人が勝手に官職を受けていることを批難して元暦2年(1185年)4月15日に任官を受けた御家人の東国への帰還を禁止するとともに、「自由任官の禁止」「成功の重視」「任官後の在京勤務の励行」を基本方針とする下文を発給した(『吾妻鏡』)。これは幕府の長である鎌倉殿(後の将軍)が、他の権門と同様に主従関係にある御家人の任官を統制するとともに、成功の実績を重視する方針を示している。『御成敗式目』第39条は幕府の推挙状のない御家人の任官を禁止する一方で、成功を行った者が幕府に推挙を求めることを肯定している。一方、朝廷も幕府に対して成功への協力を要請し、幕府は御家人に対して任官希望を募って交名を作成・提出している。ところが、実際に応募した御家人が未納を起こしたり、朝廷の担当者(奉行人)に対して減額を要求するなどの問題を起こしていた。そのため、嘉禎4年(1238年)朝廷は上洛中であった将軍藤原頼経に対して改善を求め、これを受けた幕府は同年9月27日に追加法96条を出して、建久年間の成功金額(衛門尉10000疋、兵衛尉7000疋、権守・近衛将監・内舎人2000疋など)を基準として御家人が朝廷に対して減額を求めることを禁じる措置を取った。だが、物価の変動もあって成功の相場は次第に下落しつづけ、弘安10年(1287年)に朝廷は大幅に減額されていた金額(靫負尉(衛門尉)・権守1500疋、兵衛尉1000疋、近衛将監800疋、叙爵1500疋など)が決定されている(『勘仲記』弘安10年5月11日条)。また、幕府側でも内部の権力変動に伴って推挙の実質的な権限が将軍から執権、更に得宗へと移動していくことになる。 こうした成功の仕組は国衙組織が解体されて国司が有名無実化する南北朝時代まで続いたが、やがて武家(室町幕府)に権限を吸収されていく。 奥州合戦(文治5年(1189年))以降、恩賞として官位を配る慣例は絶えていたが、鎌倉幕府を倒して建武の新政を開始した後醍醐天皇はこれを復活させ、足利尊氏を鎮守府将軍(1333年6月)・左兵衛督(1333年6月)・武蔵守(1333年8月)・参議(1334年9月)に叙したのを皮切りに、次々と武士たちへ官位を配り始めた。更に恩賞業務の審議・調査を行う部局として、恩賞方を設置した。 詳細は「恩賞方」を参照 「天龍寺造営記」によれば暦応4年(興国2年/1341年)9月24日に「靫負尉」の官職100人分の成功が天龍寺造営の原資に当てられたという。。 貞治5年(1366年)10月に吉田社召功で伊予守に任官した上杉顕定を最後に、成功は姿を消す。以降は、私称官途が広まるようになる。
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