成功の弊害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 03:10 UTC 版)
成功は、一国平均役の登場と並んで院政期の財政を支える有力な手法として活用された。だが、その一方で様々な問題も引き起こした。一つは受領の任命手続の原則が崩壊してしまったことである。摂関期までは、新たに叙爵を受けた者は蔵人・式部・外記などの地位に就き、そのうち在職期間が長いものから新しく受領に任ぜられ、既に受領となった者は公文勘済(公文の勘会を終えること、受領功過定の中核にあたる)を済ませることで他の受領に任じられる権利を得た。ところが、院政期になると院権力の政治介入で重任や遷任がしばしば行われ、更に受領成功によって同様の措置が認められる者が続出したために、新たに受領に任じられる枠が失われ、一度受領の地位を失うと復帰することが困難になった。このため、受領希望者や重任・遷任によって引き続きその地位を保ちたいと考える現職の受領たちは受領成功を引き受けることで受領の地位を獲得しようと奔走し、あるいは治天の君である院の方から成功を持ちかける(賦課する)場合も生じたのである。 次に成功によってポスト不足が引き起こされたことである。前述の通り、受領成功が盛んになった一因として受領の重任・遷任によって非受領や元受領が受領の地位に就くことが困難になったことがあげられるが、当然のように成功を行ったとしても受領の人数には限りがあった(令制国が66か国である以上、受領として実権を持つ国司も当然66名が最大数となる)。しかも、成功の実施が直ちに官職の任命を保証するものではなく、除目の際には申文を提出する必要があり、しかもその時に闕官が無ければ補任を受けることは出来なかった(朝廷側からすれば、成功宣旨を出したとしても直ちに任官させる義務はなく、闕官の有無を気にせずに成功を行わせることが出来た)。そのため、他の競合相手を出し抜くためには1つの地位を得るために複数の成功を行う「超越功」も行われた。その一方で、既に受領の地位に就いている院近臣の中には院に対する経済的な奉仕の一環として院から直接成功を命じられる者もいた。これを通常の成功と区別するために賦課成功と称されている。承暦元年(1077年)に完成した白河天皇の御願寺である法勝寺や長治2年(1105年)に完成した堀河天皇の御願寺である尊勝寺の造営はほとんどが受領の成功によったが、その中には賦課成功であったものも含まれると考えられている。院近臣の中にはまだ着手前あるいは造営中に受領に任じられる「先任」と呼ばれる措置が採られる場合があり、極端な場合には完成時に更なる褒賞を受ける場合すらあった(つまり、1つの成功で結果的に2度の受領補任を受けることになる)。尊勝寺造営の時に法華堂・准胝堂を担当した平時範と阿弥陀堂を担当した高階為家はそれぞれ近江守への遷任(『中右記』康和5年11月1日条)と備中守への遷任(『中右記』長治元年12月27日条)を受け、落慶供養時には白河上皇の意向で重任宣旨が下されて後にこれを重任功として申請している。この傾向は地下官人にも広がりを見せていった。久安4年(1148年)1月28日に出された宣旨によって衛門府の少尉は左右10名から20名に、兵衛府の尉と馬寮の允は左右2名(大少1名ずつ)から左右20名。内舎人は40名から60名(令制では90名であったが大同3年(808年)に減員されていた)に増員された。ところが、平安時代末期から鎌倉時代初期(1200年前後)に書かれた『官職秘抄』には、近代(近年)には久安年間の規定も守られず、実際には元の定員が多い内舎人でも100名以上、他の職では久安の定員の3倍から5倍の人数が任じられていたと記されている。久安の増員自体が地方の武士に人気があったこれらの定員を増やして成功を勧奨する意図があったとされ、そして実際には治承・寿永の乱(源平合戦)や養和の飢饉による財政逼迫などもあって成功に応じる者、場合によっては申請した者をただちに「先任」する形を取る臨時除目を行って次々と任官させていった結果、大量の補任につながったのである。それでも、補任に与れなかった者もいたらしく、『大間成分抄』に任官された実例として引用された藤原高久という人物の任官申文によれば、保延6年(1140年)に成功を行って馬寮の允への任官を希望した藤原盛重という人物は結局任官が適わず、成功の権利を譲られた一族の藤原高久が建久7年(1196年)に当該申文を出して漸く大学少允に補任されたことが判明する。つまり、成功の実施から補任まで半世紀以上かかったことになる。当然、成功を行いながら、闕官が無いことを理由として補任も受けられずに終わった事例も存在したと考えられている。 そして、受領成功の多用は結果的には却って朝廷の財政を悪化させる事態を招くことになった。本来、成功は受領の私財で行うものとされ、赴任先の国の官物を流用したり賦課を行って現地に負担を転嫁したりすることは、「非法」とされて固く戒められていた。なぜなら、受領成功は本来国宛の財源である正税や官物の不足を補うために始めた制度であるから、成功によってそれらの財源が用いられて国宛が妨げられるのは本末転倒だからである。ところが、受領による財の運用における公私の区分は元から曖昧であったことから、官物などの流用や現地における負担の転嫁が行われる危険性が潜在的に存在していた。院政期に実施された先任も本来であれば成功を行った後に受領として得られる収益を先取りして成功の経費に流用することを事実上認めることとなり、現地における租税の徴収に成功の負担分を転嫁する歯止めを失うことになった。更に受領功過定の形骸化によって少なからず働いていた済物納入を通じた受領に対するチェック機能も低下していったことも流用を促す一因となった。11世紀末には成功の実施を理由として国宛の一種である臨時召物と呼ばれる賦課の免除を求める受領が現れ始め、朝廷も成功に対する優遇策の一環としてこれを許容するようになる。ところが、これをきっかけに受領が毎年中央に納める義務を持つ済物の免除にまで広げる動きが現れた。そのため、12世紀の貴族の日記上には「又募奉遷任・当任(=遷任)受領成功之時、寄事於左右、神社・仍守(=仏寺)・封家・納宝物、全以不済」(『長秋記』元永2年(1119年)11月15日条)、「神社・仏寺・封家・納官、諸国吏全不弁済事」(『中右記』大治4年(1129年)7月15日条裏書)といったように臨時召物だけではなく済物も納めない国々が続出する状況が記されるようになり、12世紀中頃には遂には本来であれば非法である済物免除の宣旨を治天の君より与えられる受領も現れた。これによって官物などの公的資財を直接成功に投入することが可能となり、受領が一国の収入をもって造営などの事業にあたる造国の制度が展開されることになった。また、こうして発生した臨時召物や済物不足を地下受領で補った結果、前述のように官職の大増員やそれでも解決しない官職の不足によって半世紀も任官されない事例が登場したのである。 院政期以後の朝廷において、成功は国宛(一国平均役によって賦課が行われた)とともに、国家財政に欠かせない重要な財源になる一方で、治天の君と院近臣の間では治天の君が近臣に受領の地位を保証し、受領は成功による経済的奉仕で応えるという、主従関係を維持・強化するシステムとして機能するようになっていたのである。
※この「成功の弊害」の解説は、「成功 (任官)」の解説の一部です。
「成功の弊害」を含む「成功 (任官)」の記事については、「成功 (任官)」の概要を参照ください。
- 成功の弊害のページへのリンク