受領の成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 03:10 UTC 版)
一方、受領成功も10世紀後期に成立している。財政難に苦しんだ朝廷が、内裏や官衙、寺社などの造営の費用を諸国に費用の国宛を行ったり、造営の一部を諸国に請け負わせたりすることで賄おうとしたが、中央財政の不足分や臨時の出費を地方財政から補填する政策はやがて地方財政の悪化をもたらした。一方、地方の国司の中でも実際に現地で統治を行っていた受領と呼ばれる人々は、徴税の際に自らも利得の配分を得るなどして莫大な利潤を得て私財を蓄積していった。だが、国司の任期は4年と定められており、受領たちにとっては、任期を終えた後の自己の人事に対して強い関心を持っていた。一方、朝廷側も彼らの財力に目を付け、人事面での優遇と引き換えに彼らの私財の拠出を受けようとした。一条天皇の永延3年(989年)2月1日に行われた除目で藤原貞順と源乗方がそれぞれ丹波守と越前守に任じられたのが記録上に残る最古の受領成功(受領功)である。『小右記』の同日条には事情が詳しく書かれており、貞順は崇親院と上下の賀茂社の神館造営の功、乗方は式部省の造営の功(ただし、乗方の父源重信は現職の大納言であったことも考慮する必要がある)によって任じられたと記されている。重任功の最古の記録も寛弘元年(1004年)である(『御堂関白記』同年閏9月13日条)。翌寛弘2年(1005年)に行われた内裏再建に際し、播磨守藤原陳政から重任功によって施設を造る申請が出された。多くの公卿が反対する中で、当時の最高責任者であった内覧左大臣の藤原道長は、諸国が連年の国宛で疲弊していることを理由に播磨国の官物を一切用いず、陳政の私物(私財)のみで造営することを条件に常寧殿の受領成功を認めた。もっとも、この時期においてこうした成功はあくまでも国宛で賄い切れない場合にのみ限定的に実施された。これは、あくまでも諸国の負担は国宛によるという原則が貫かれていたこと、受領の私物(私財)と国衙の官物の区分が曖昧であったこと(ともに農民などからの徴税によって生み出される)から、望ましい手法ではないという認識が朝廷側にもあったと考えられている。 受領成功は成功希望者が朝廷に成功実施の申し入れを行い、認可されると成功を命じる成功宣旨が出される(重任功の場合は「重任宣旨」と呼ばれる)。希望者はこれを受けて実際に事業に取りかかり、終了後に官使の覆勘(チェック)を受ける。覆勘が通った希望者は次の除目の際に任官申文を提出し、闕官があれば補任されることになる(重任の場合は、一旦任期終了とともに闕官扱いされて大間書に掲載され、その闕官に補任する措置が取られる。また、退任直前に重任が確定した場合には重任官符と呼ばれる太政官符で代用される場合もあった)。ここで重要なのは、単に成功を終えただけでは補任の対象にはならず、申文の提出を行うことと闕官の存在する場合に補任を行うという条件が付けられていたことである。
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