日本船としての運航
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「黒潮丸 (タンカー)」の記事における「日本船としての運航」の解説
1939年(昭和14年)2月に竣工した「黒潮丸」は、早速、カリフォルニア州やオランダ領東インド産からの海軍燃料用石油の輸入に使われた。 太平洋戦争4ヶ月前の1941年(昭和16年)8月15日、建造時の計画通りに「黒潮丸」は日本海軍に徴用され、同年9月5日付で特設艦船に入籍し、給油艦に相当する特設運送船甲(給油)に類別された。開戦前に、日本海軍の作戦拠点となるトラック泊地(チューク諸島)やパラオへの輸送任務に従事。同年12月8日の開戦時には南遣艦隊の補給任務を担当し、マレー作戦に出撃する艦艇に対してフランス領インドシナ南端のプロコンドル島(現コンソン島)で給油を実施した。続いて同年12月16日には英領北ボルネオ攻略作戦に参加し、占領されたばかりのミリに進出して駆逐艦に給油した。その後の蘭印作戦でもジャワ島攻略戦に参加した。 1942年(昭和17年)3月20日、「黒潮丸」は海軍籍から除籍され、続いて5月1日に日本海軍からの徴用を解除された。徴用解除は優秀タンカーの中で例外的な措置で、岩重多四郎によればタービン機関の不調が原因である。民間商船に戻った「黒潮丸」は、石油の集積地点であるシンガポールから日本本土への石油輸送任務に従事することになった。徴用解除からすぐの1942年5月23日付で「黒潮丸」は、一般商船のまま乗員を海軍軍属待遇として扱う指定船になっている。松井邦夫によれば、1943年(昭和18年)に船主が中外海運から系列会社である東和汽船に変更となったとされるが、船舶運営会の1943年10月の資料では船主は中外海運のままで、船舶運営会に代わって商船の管理を行う運航実務者に東和汽船が指定されている。また、船舶運営会の資料を基礎にした『日本商船隊戦時遭難史』によれば、1945年1月の沈没時の船主は東和汽船となっている。 パレンバン第2製油所の責任者だった十川透陸軍少佐の回想によれば、1942年11月に海軍タンカー「黒潮丸」ほか1隻が事前連絡無しに陸軍管理下のパレンバンへ燃料油積み取りのため入港し、やむをえず南スマトラ燃料支廠長の中村隆寿陸軍大佐の独断で給油を認めたが、本廠から叱責される事件が起きたという。ただし、前述のとおり、1942年11月頃の「黒潮丸」は海軍による徴用解除後である。 1943年(昭和18年)7月に高速石油輸送船団であるヒ船団航路が開設されると、以下のとおり、「黒潮丸」はヒ船団に加入して日本本土とシンガポールの間を往復するようになった。船団の編制は出航時の状態であり、途中で変更されたものがある。シンガポールへ向かう往路では、南方に派遣される増援部隊の兵員や航空機をしばしば便乗させている。 ヒ29船団(輸送船6隻・護衛艦「佐渡」):1943年12月30-31日門司発、高雄・マニラ経由で、1944年1月15-16日にシンガポール着。航空機12機を輸送。 ヒ32船団(「建川丸」等輸送船6隻・空母「千歳」等護衛艦2隻):1944年1月25日にシンガポール発、2月4日に門司港着。原油16,000キロリットルを輸送。 ヒ45船団(「建川丸」「厳島丸」等輸送船7隻・護衛艦「汐風」):1944年2月16日に門司発、2月21日に「黒潮丸」は機関故障のため高雄港で船団から除外。 ヒ47船団(輸送船5隻・護衛艦2隻):高雄で修理後に1944年2月28日に途中加入、3月5日にシンガポール着。航空機10機輸送。 ヒ48船団(「建川丸」「厳島丸」等輸送船13隻・護衛艦4隻):1944年3月11日にシンガポール発、「黒潮丸」は3月14日に経由地バンフォン湾(英語版)に着くまでの行程で機関故障により離脱し、サンジャック(現ブンタウ)で修理。 ヒ50船団(輸送船13隻・護衛艦「汐風」「佐渡」):1944年3月20日にサンジャックで途中加入して、マニラ・高雄経由、4月8日に岩国港着。原油16,500キロリットルを輸送。この航海後、神戸の川崎造船所に入渠して7月9日まで機関整備。 ヒ69船団(輸送任務の空母「大鷹」「海鷹」を含め輸送船16隻・空母「神鷹」等護衛艦6隻):1944年7月13日に門司発、「黒潮丸」は途中で一時的に故障落伍するが7月20日にマニラで船団合同、「音羽山丸」とともに船団の第1分団となり、7月31日にシンガポール着。航空機10機と部隊・貨物を輸送。 ヒ70船団(「せりあ丸」等輸送船8隻・「神鷹」等護衛艦8隻):1944年8月4日にシンガポール発、8月15日に門司着。重油14,590キロリットル輸送。 ヒ73船団(輸送船18隻・空母「雲鷹」等護衛艦7隻):1944年8月25日に門司発、高雄経由で、9月5日にシンガポール着。航空機8機輸送。 ヒ75船団(輸送船10隻・「神鷹」等護衛艦6隻):1944年9月14日に高雄で途中加入、本船含めて船団加入船に故障多発したが、9月22日にシンガポール着。 ヒ76船団(輸送船9隻・「神鷹」等護衛艦7隻):1944年10月2日にシンガポール発、10月11日に三亜で部隊・貨物を搭載、レイテ沖海戦のため補給任務に転用されることになり、10月22日に「東邦丸」とともに馬公で船団から除外。ただし、結果的に補給任務は実施せず、馬公で重油15,003キロリットルを陸揚げ。 ヒ79船団(輸送船6隻・護衛艦4隻):1944年10月30日に高雄で途中加入、11月9日にシンガポール着。 ヒ80船団(輸送船8隻・護衛艦10隻):1944年11月17日にシンガポール発、12月4日に門司着。 ヒ87船団(輸送船9隻・護衛艦9隻):1944年12月31日に門司発、1945年1月9日に高雄で空襲により大破したため船団から除外。 「黒潮丸」として最後の航海となったのは、ヒ87船団に加入してのシンガポール行であった。1944年12月31日に門司を出発したが、1945年(昭和20年)1月9日、経由地の高雄で停泊中にアメリカ海軍第38任務部隊による空襲を受けて大破・擱座した。「黒潮丸」はヒ87船団から除外されて高雄に残ったが、同年1月21日に再び空襲を受けて沈没した。
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日本船としての運航
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アラミスは、他のフランス船・仏印船10隻とともに日本海軍から帝国船舶に管理委託され帝亜丸と命名された。実際の運航は貨客船帝興丸(15,105トン、旧仏船D'Artagnan)とともに、日本郵船に乗員を含まない裸傭船契約の形で委託された。1942年9月には帝国船舶から船舶運営会が傭船する形態となったが、引き続き日本郵船に運行委託された。 日仏間で1942年2月25日に締結された覚書では、フランス船は軍事輸送には使用しないという協定であったため、本船を含む全徴用フランス船が、陸軍徴用船(A船)や海軍徴用船(B船)ではなく民需船(C船)とされた。しかし実際には軍需物資を含む輸送任務にも使用された。日本船旗下での最初の航海は6月12日にサイゴンを出て23日に横浜港へ着くもので、米約5,000トンと乗客569人を運んでいる。 帝亜丸が従事した特別な任務に、抑留中の敵国民間人を互いに引き渡す戦時交換船としての航海がある。1943年(昭和18年)9-10月の第二次日米交換の際に、当時軍隊輸送船や航空母艦に改装されていない、数少ない大型客船として選択された。またそれ以前に交換船として使用されていた船のうち浅間丸は軍隊輸送船として大改装されたため使用困難、鎌倉丸と龍田丸は戦没、当初の予定船だったイタリア船コンテ・ヴェルデは航海直前の9月11日にイタリア降伏にともないイタリア人船員たちにより自沈という状況であり、短期間で整備可能なのが本船だけであった。 灰色の戦時塗装の上から白十字と日の丸の識別塗装を船体に施し、十字形の電飾標識を船上に掲げた帝亜丸は、日本滞在中の敵国国民135名と外務省の代表者、スイス公使館員など中立国の便乗者、赤十字社の関係者など29名を乗せて、9月13日に横浜港を出港した。上海で被交換者1,035名、香港で被交換者146名とフィリピンへの送還者182人を追加収容し、フィリピンのサンフェルナンドで151名、サイゴンで33名の合わせて計1,711人の被交換者を乗せた。帝亜丸はシンガポールを経由して、10月18日に交換地であるポルトガル領インドのゴアの主港モルムガオ(英語版)に到着し、アメリカ側の交換船であるスウェーデン船籍の客船グリップスホルムに被交換者を引き渡した。グリップスホルムから日本人引揚者1,517人と中立国の8人を収容した帝亜丸は、10月21日にモルムガオを出航、シンガポールとマニラで現地勤務の218人が下船し、11月14日に横浜港へ無事に帰着した。
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