日本航空設立
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第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の航空禁止令により航空局は解散、飛行機は破棄・焼却され、軍用機は勿論、民間機も全ての活動が禁止され、航空事業は全面的に停滞した。まさに模型飛行機すらも飛ばすことができず、日本の空を飛ぶのは外国の飛行機だけという有様となった。 この状況の中で、松尾は初代の逓信省航空保安部長、さらに戦後の省庁再編で初代の電気通信省航空保安庁長官として日本航空の設立に動いた。この際に政商として悪名が知られた白洲次郎がアメリカ合衆国の航空会社の資本による設立を画策して、日本航空設立に動いていた松尾や藤山愛一郎と対立した。さらにGHQと粘り強い交渉を重ね、ついに1951年(昭和26年)1月、日本人の会社が航空事業を営むフラッグキャリアである日本航空の設立を勝ち得た。 1951年(昭和26年)10月25日、日本航空のマーチン2-0-2「もく星」号が東京から福岡に向けて飛び立った。日本の空に日の丸の翼が蘇った瞬間であった。後に当時GHQ参謀のアメリカ空軍大佐アレンは、松尾を「絶望の中の勇者」と呼び、彼の忍耐強い不屈の人間性を尊敬を込めて賞賛した。
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