日本船初のSOS
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日本艦船で最初に国際的な遭難信号SOSを発したのは東洋汽船の地洋丸に開設されていた逓信省の「地洋丸無線電信局」(呼出符号JCY)である。地洋丸は日本で無線による公衆通信サービスが創業された1908年に開局した老舗船舶局である。 1916年(大正5年)3月29日午後0時10分、マニラを出港した地洋丸JCYは香港に向かった。翌30日の朝に香港のケープ・ダギラー(Cape D'Aguilar)海岸局(呼出符号VPS)の通信圏に入ったが、空電妨害が激しくなり、午後には通信不能となってしまった。逓信省の伊藤豊地洋丸無線電信局長は31日深夜1時まで待っても空電妨害が収まる気配がないため3時間ほど仮眠した。 早朝4時に起床したところ、ケープ・ダギラー海岸局VPSとの距離が近くなったこともあり、通信を再開することができた。昨夜から持ち越した未送電報の処理を終え、伊藤局長がひと息つこうとした1916年3月30日午前4時30分、地洋丸が突然激しく揺れた。濃霧の中を全速力で航行していた地洋丸が無人島に乗り上げ座礁したのである。 無線室でしばらく様子を伺っていた伊藤局長は、アーネスト・ベント船長より「船はレマ付近で座礁したから危急符号SOSを送って各所に救助を求めてくれ」とSOSの送信命令を受けた。ただちにSOSを前置してケープダギラー海岸局VPSを呼び、座礁を伝えたところ、英国海軍へ連絡する旨の返答があった。そして2分後には「駆逐艦ホワイティング(HMS Whiting)が救助に向かう」と伝えてきた。しかし地洋丸JCYが発した第一報の事故地点レマ島付近は正しくなく、あとで担杵(タムタム)島だったとする訂正電文のやり取りもあり、駆逐艦ホワイティングが現場に到着したのは午前7時だった。駆逐艦ホワイティングが到着するまでの間、現場近くを通過する船が2隻あり、しきりに汽笛で救助を求めたが、霧中航行の信号だと勘違いされ、そのまま過ぎ去っていったという。船客299名全員は駆逐艦ホワイティングにより香港へ搬送され、31日午前11時に全員が無事上陸できた。この海域は海賊の巣窟となっている危険エリアだったが、ケープダギラー海岸局VPSの迅速なる救助手配と駆逐艦ホワイティングの活躍により大事には至らずに済んだといえよう。 1916年3月31日正午前になり日本海軍二等巡洋艦「明石」(呼出符号JLM)と通信ができて、地洋丸は応援を求めた。午後3時過ぎに事故現場に巡洋艦「明石」が到着。駆逐艦ホワイティングが見守る中、午後8時の満潮時、地洋丸の乗組員たちと巡洋艦「明石」が協力して、地洋丸を離礁させるための引きおろしを試みたがうまく行かなかった。乗組員262名は担杵(タムタム)島に避難上陸し、一夜を明かした。日本のジャズ・オーケストラの発展に貢献したとされる波多野福太郎はこのとき地洋丸の専属楽団の楽士だった。波多野福太郎は暗黒の無人島でトランペットを抱いて朝を迎えたという。乗組員たちは後から来た英国海軍の駆逐艦ヴィラゴー(HMS Virago)により救助された。 翌朝以降、何度も離礁を試みられたが、4月2-4日の激浪により地洋丸は前方1/3の位置から真っ二つに折れてしまい、最終的に修理を断念し廃船が決まった。1916年4月21日の官報にて逓信省は地洋丸無線電信局JCYの廃止を告示した。
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