幕末から近代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:39 UTC 版)
幕末期の動乱の中、尊皇攘夷派の一党、天誅組が決起(文久3年〈1863年〉)し、宮廷と関係の深い十津川の郷士らも呼応して五條に結集するが、情勢の急変により郷士たちは離脱・帰村、天誅組も東吉野村で壊滅する。その後、若干の分派が十津川村をたよって小辺路を敗走した。 1889年(明治22年)8月の十津川大水害により十津川村は甚大な打撃を受けた。この際、災害の中心地であった十津川本流沿いの幹線道路 西熊野街道(十津川街道とも言う。今日の国道168号に相当)の崩壊が著しかったため、当時五條市にあった郡役所への急報が小辺路伝いに届けられた だけでなく、救援ルートとしても用いられた。水害により生活基盤が損なわれたため、住人の一部は再建を断念して北海道に入植した(のちの新十津川町)。その際、入植者たちは、小辺路を経て高野山から神戸へ向かい、北海道へ海路をたどった。 明治維新以降の近代に入ってからは熊野詣の風習も殆どなくなってしまったため、参詣道としての利用はほとんど絶えたものの、周囲の住人が交易・物資移送を行う生活道路として昭和初期までは使用されつづけた。 小辺路沿道の吉野の山村では物資移送をもっぱら人力に頼っていたが、明治中期以降は馬を使うようになった。野迫川村では集落ごとに2、3頭の馬を飼うようになり、高野山との間で往来があった。高野山からは米、塩、醤油、味噌、酒、魚、その他日用雑貨品が、山中からは木炭、木材、箸、経木、楮、割菜、高野豆腐がもたらされた。また、紀和国境の果無峠は、前述の通り、龍神・熊野・高野および大峯の各地を結ぶ交通路として利用され続けていた。
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