果無峠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:39 UTC 版)
小辺路の最後の峠である果無峠へは、かつて渡しや宿場があった柳本(やぎもと)の集落近くからとり付く。西川をはさんで対岸の蕨尾には新宮からの舟着場があり、山中で働く杣人のための物資を運んでいた(『めぐり』)。この舟を旅人も利用できたが、ほとんどの参詣者は果無峠を越えたという。 果無峠を越える道は参詣者だけでなく、地元の人々の生活道路としても使われていた。蕨尾から七色(なないろ)にかけては明治初年に七色横手(なないろよこて)という道が開かれたが、断崖沿いの危難な道であるため、ほとんど使われなかったという。果無峠が使われなくなり始めるのは、1921年(大正10年)に新宮と折立を結ぶプロペラ船が就航してからのことである。五条からの国道168号線が柳本以南へ開通するのはさらに遅れ、昭和30年代の電源開発とともにようやく本宮町まで陸路がつながる と、果無峠は生活道としての役割を終えることとなった。 柳本から果無集落への上り坂には石畳が残されている。この上り坂にはかつて道作りの勧進所が2ヶ所設けられており、通行人から通行税を募っては石畳の整備に充てたという。果無集落を通り抜け、集落のすぐ上部で西国三十三所第三十番の観音像に出会う。この観音像は、十津川村櫟砂古(いちざこ)の第三十三番から、本宮町八木尾の第一番まで古道沿いに配されている三十三観音像のひとつである。 山道に入ると緩やかな上り坂が続き、やがて古道左手に山口茶屋跡が見えてくる。『めぐり』に「四十丁目茶屋」、『案内記』 に「やない本より壱里上り」と記された場所と考えられており、石垣の跡がある。またしばらく登ると観音堂が見えてくる。観音堂の傍らの第二十番観音像を横目に急な登りをたどり、果無峠に着く。果無峠(はてなしとうげ、標高1114メートル)は、果無山脈の尾根を古道が横切る小平坦地で、半壊した法筐印塔と第十七番観音像がある。 峠からは再び急な道をたどる。第十五番観音の手前には開けた土地があり、『めぐり』 に「花折茶屋」と記された場所である が、その名残は六字名号供養塔のみである。これは下方の七色集落の人が茶屋を出した跡だと言われ、峠から八丁の距離にあることから八丁茶屋とも呼ばれた。さらに下って七色分岐を分けるが、この分岐の辺りも少し開けている。古道右手には「七色領」の境界石柱があり、ここにも七色の人が営む茶屋があったという。 道は八木尾で熊野川のほとりに降りる。八木尾からの道は国道によって消されており、不明確である。近世には八木尾から本宮大社まで、舟で向かう例も見られた(『めぐり』)。八木尾から萩を経て九鬼の辺りから旧道を登り、仲ノ平の三軒茶屋跡にて中辺路と合流する。中辺路との合流点には駒形の石造道標があり、関所や茶屋があったと伝えられている。ここからの登り坂を越えれば、本宮大社まではあとわずかの道のりである。 果無集落 果無峠の十津川側登山口からすぐの山上(稜線上)にある集落。北に向かって眺望が開ける。紀伊山地には、山の中腹部に平坦に近い緩斜面が見られることがあり、地質的には紀伊山地がかつて隆起準平原であったときの名残と考えられている。 三十三観音像 本宮町八木尾を起点(第一番)とし、果無峠(第十七番)、果無集落(第三十番)を経て櫟左古の第三十三番まで、山道沿いに配されている観音像群。西国三十三所の観音の像を、十津川・新宮・本宮の信者たちが1922年(大正11年)から1923年(大正12年)にかけて寄進・造立したもの。舟形光背に半肉彫りないし厚肉彫りの観音像が彫られており、光背には札所と観音名、台石には造立年月日と施主が刻銘されている。 果無観音堂 果無峠下にある観音堂。13.7メートル×9.5メートルの石垣をめぐらせた平坦地に、南向きに建てられた宝形造りの観音堂があり、石仏3体が祀られている。石仏は左から順に千手観音立像(舟形光背石造半肉彫)、聖観音坐像(石造丸彫)、不動明王坐像(火焔光背石造厚肉彫)だが摩滅が著しい。聖観音像と不動明王像の台石には施主・建立者名の刻銘がある。 果無集落 山口茶屋跡の石垣 果無観音堂 第十七番観音像(果無峠) 三軒茶屋跡の道標
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