勧進所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:27 UTC 版)
大仏殿西方にある勧進所は、江戸時代に僧公慶が大仏復興勧進の事務所を置いたところである。勧進所の敷地内には八幡殿、阿弥陀堂、公慶堂などがあるが、平素は非公開。毎年10月5日のみ公開される(公慶堂は4月12日も公開)。(八幡殿の僧形八幡神像(国宝)については既述。) 木造五劫思惟阿弥陀坐像 重要文化財。平安時代。像高106.0センチ。 勧進所阿弥陀堂に安置される像。五劫思惟阿弥陀(ごこうしゆいあみだ)は阿弥陀如来像の変化形で、図像的には螺髪が大きく盛り上がって、頭髪がぼさぼさに伸びた状態を表しているのが特色である。この種の像は、阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩という名の菩薩であったとき、衆生を救済するための48の誓願(四十八願)を立てるために「五劫」という長い時間、ひたすら思惟したという経説に基づくものであり、伸びた頭髪は思惟に費やした長大な時間の経過を象徴している。「劫」とは、40里四方の大磐石を100年に一度、白氈(びゃくせん、毛織物)で撫でて、その大磐石が磨り減ってなくなってもまだ終わらない、無限に近い時間である。本像はヒノキ材の一木造で、衣を通肩に(両肩を覆って)着用し、合掌する姿に表す。面相は角張って扁平であり、小さな目鼻立ちを顔の中央部に寄せて表す点に特色がある。厚手で重苦しい衣文表現にも特色があり、こうした特異な作風から、重源(鎌倉時代の東大寺復興に尽くした僧)が宋から将来した像との伝えもあるが、日本特産のヒノキ材を用いることから、日本製である可能性が高い。一木造の仏像であっても、坐像の場合の両脚部は別材を矧ぎ付ける例が多いが、本像は両脚部も含めて一木から彫成しており、脚部の奥行が少なくこぢんまりと作られているのはそのためと思われる。五劫思惟阿弥陀像の作例には、本像のように合掌するもののほかに、定印(じょういん、腹前で両手を組む)を結ぶもの、定印を結んだ両手を袖の中に隠したものなどがある。東大寺の末寺の五劫院(奈良市)の五劫思惟阿弥陀像は、袖の中で定印を組む例である。 木造公慶上人坐像 重要文化財。江戸時代。像高69.7センチ。 勧進所公慶堂に安置される像。像主である龍松院公慶は、江戸時代に大仏と大仏殿の復興に尽力した僧である。鎌倉時代に復興された大仏と大仏殿は、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵火でふたたび焼けた。その後、大仏と大仏殿は仮復旧されたものの、仮の大仏殿は大風で倒れ、なかなか再建されなかった。公慶は、長らく露座(雨ざらし)のままであった大仏を見て復興を志し、貞享元年(1684年)、37歳のときに復興勧進に着手。銅板を張って仮復旧の状態であった大仏の頭部を新たに鋳造し、台座蓮弁を補鋳するなどして、元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養を行った。大仏殿は宝永2年(1705年)に上棟にこぎつけたが、公慶は大仏殿の竣工を見ずに同年7月、江戸で客死した。58歳であった。本像は公慶の弟子である公盛が、仏師性慶と僧即念(公慶の弟子)に作らせたものである。像は朱衣の上に茶地の袈裟をまとい、胸前で両手を組む。顔はうつむき、眼は充血し、両頬はこけていて、大仏殿復興に後半生を捧げた僧の辛苦を思わせる。
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