勧進による復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:33 UTC 版)
応仁の乱の戦渦は甚大であり、文明18年(1486年)に起きた土一揆では伏見稲荷大社の神宮寺の役割を果たしていた東寺の伽藍も焼失、終戦後は稲荷祭でさえ執り行えなかった年があったという。そこで伏見稲荷本願所に真言宗東寺の末寺であった愛染寺を改めて神宮寺とし、稲荷山では仏教系の稲荷として荼吉尼天も礼拝され、神仏習合が進んでいった。また愛染寺が伏見稲荷大社の社殿造営や修復、勧進、出開帳を管理、円阿弥によって諸国勧進も進められた。このころの勧進とは、寺社造営のために寄進を募ることだった。伏見城を築城した豊臣秀吉は、天正16年(1588年)、母の大政所の平癒を祈願、成就したことから大規模な寄進を行い、現在の楼門はその折の建立という。
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