木造地蔵菩薩立像重要文化財。鎌倉時代。像高89.8センチ。もと東大寺の勧進所公慶堂に安置されていた像。勧進所八幡殿の僧形八幡神坐像、俊乗堂の阿弥陀如来立像とともに、東大寺に伝わる快慶作の仏像の一つである。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ、通形の地蔵像である。右足を軽く踏み出し、それに伴って衣の文様に変化が生じている。像表面の彩色、截金文様、銅製の装身具などは当初のもの。構造は、彩色が厚く残っているために詳細は不明だが、頭体部を一材から彫成し、前後に割り矧いでいると推定される。光背は亡失している。台座は蓮華座の部分は他の仏像からの転用、その周囲に張り付けた雲形の部分は後補である。右足枘に「巧匠法橋快慶」の刻銘がある。快慶が法橋の僧位に任じられたのは建仁3年、法眼に昇任したのが承元2年から4年の間であり、本像はこの間の作である。快慶の作品は多数現存するが、法橋時代の作品で現存するものは本像以外には他に1体しかない。快慶の円熟期を代表する作品である。木造聖観音立像とは? わかりやすく解説

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木造地蔵菩薩立像重要文化財。鎌倉時代。像高89.8センチ。もと東大寺の勧進所公慶堂に安置されていた像。勧進所八幡殿の僧形八幡神坐像、俊乗堂の阿弥陀如来立像とともに、東大寺に伝わる快慶作の仏像の一つである。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ、通形の地蔵像である(ただし錫杖は亡失)。右足を軽く踏み出し、それに伴って衣の文様に変化が生じている。像表面の彩色、截金文様、銅製の装身具などは当初のもの。構造は、彩色が厚く残っているために詳細は不明だが、頭体部を一材から彫成し、前後に割り矧いでいると推定される。光背は亡失している。台座は蓮華座の部分は他の仏像からの転用、その周囲に張り付けた雲形の部分は後補である。右足枘に「巧匠法橋快慶」の刻銘がある。快慶が法橋の僧位に任じられたのは建仁3年(1203年)、法眼に昇任したのが承元2年から4年の間(1208 - 1210年)であり、本像はこの間の作である。快慶の作品は多数現存するが、法橋時代の作品で現存するものは本像以外には他に1体(大阪・大円寺の阿弥陀如来像)しかない。快慶の円熟期を代表する作品である。木造聖観音立像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:27 UTC 版)

東大寺の仏像」の記事における「木造地蔵菩薩立像重要文化財鎌倉時代像高89.8センチ。もと東大寺勧進所公慶堂に安置されていた像。勧進所八幡殿の僧形八幡坐像俊乗堂阿弥陀如来立像とともに東大寺に伝わる快慶作の仏像一つである。右手錫杖左手宝珠を持つ、通形の地蔵像である(ただし錫杖亡失)。右足軽く踏み出し、それに伴って衣の文様変化生じている。像表面彩色截金文様銅製装身具などは当初のもの。構造は、彩色厚く残っているために詳細不明だが、頭体部を一材から彫成し前後割りいでいる推定される光背亡失している。台座蓮華座部分は他の仏像からの転用、その周囲張り付けた雲形部分は後補である。右足枘に「巧匠法橋快慶」の刻銘がある。快慶法橋僧位任じられたのは建仁3年1203年)、法眼昇任したのが承元2年から4年の間(1208 - 1210年)であり、本像はこの間の作である。快慶作品多数現存するが、法橋時代作品現存するものは本像以外には他に1体大阪大円寺阿弥陀如来像しかない快慶円熟期代表する作品である。木造聖観音立像」の解説

重要文化財鎌倉時代像高183.0センチ

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