俊乗堂
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俊乗堂は平素は非公開で、毎年7月5日と12月16日のみ公開される。(本尊の木造俊乗上人坐像(国宝)については既述。) 木造阿弥陀如来立像 重要文化財。鎌倉時代。像高98.7センチ。 鎌倉時代に東大寺大仏の再興に尽力した俊乗房重源の臨終仏(臨終時に往生者の枕元に安置した仏像)と伝える、三尺の阿弥陀像で、鎌倉時代の仏師・快慶の作品である。俊乗堂内、向かって右の脇壇に安置される。快慶の初期の作品に比べて、量感を抑えた肉取りになっており、円熟期の快慶の絵画的、装飾的な作風の完成を見せる作品である。『東大寺諸集』所収の「新造屋阿弥陀安置由来」という記録に本像の由来が書かれている。それによれば、本像は重源が私財を投じて結縁し、仏師快慶に作らせたもので、建仁2年(1202年)から同3年(1202年から1203年)にかけて造立され、施主は東大寺僧の寛顕、供養導師は解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)であった。本像は前出の寛顕が建保4年(1216年)示寂した際の臨終仏としても用いられた。寛顕の遺言により、本像は高野山の道場に安置されるはずであったが、道場が火災に遭ったため、仁治4年(1243年)に東大寺の中門堂に安置されたという。以上の由来は、仁治4年(1243年)、大法師瞻寛(せんかん)が注進(報告)したものである。『東大寺諸集』はこれに続けて、本像が享禄2年(1529年)に鎮守八幡宮の新造屋に移されたと記す。なお、像の足枘銘(くわしくは後述)により、像表面の截金装飾が施されたのは重源の没後の承元2年(1208年)であったことがわかる(重源が没したのは建永元年・1206年)。本像には「釘打ちの弥陀」の異称もある。伝説によれば、浄土真宗の開祖親鸞が南都遊学の際、この像が親鸞の後について行こうとするので、それを止めるために、像の左足に釘を打ったという。像は割矧造で、ヒノキの一材を体側で前後に割り放し、首も割首として、玉眼を入れる。左右の袖・手先・足先などは別材を矧ぎ、肉髻珠(にっけいしゅ)と白毫(びゃくごう)には水晶を嵌入する。X線撮影により、像内には五輪塔などの納入品が存在することが確認されている。像表面は金泥塗の上に截金で亀甲繋ぎ、麻の葉繋ぎなどの文様を表し、頭髪に群青、唇に朱を差す。光背と台座は後補のものである。右足枘には梵字の「アン」の刻銘があり(「アン」は快慶の別名「安阿弥陀仏」の最初の文字)、左足枘には針書で「広岡ニテ承元二年九月一日細金印始」とある(「細金印始」は「截金を置き始める」意)とある。これらの刻銘と針書は、足枘の表面を一度削った上に記されているが、当初の銘記の内容を写したものとみなされている。 木造愛染明王坐像 重要文化財。平安時代。像高98.4センチ。 俊乗堂内、向かって左の脇壇に安置される像。ヒノキ材の寄木造で、頭体の主要部を左右の二材から彫出し、膝前、背中などに別材を矧ぐ。各所に補修が多い。全体に細身で肉付けが薄い穏やかな作風から、平安時代後期、12世紀の作品とみられる。もとは山城相楽郡和束の鷲峰山寺(じゅぶせんじ、現・金胎寺)にあったものだが、転々と所在を変えた後、明暦年間(1655 - 1657年)に東大寺金珠院の実清法印に寄進された。俊乗堂に移されたのは明治以後である。
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