俊乗堂とは? わかりやすく解説

俊乗堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:27 UTC 版)

東大寺の仏像」の記事における「俊乗堂」の解説

俊乗堂は平素は非公開で、毎年7月5日12月16日のみ公開される。(本尊木造俊乗上人坐像国宝)については既述。) 木造阿弥陀如来立像 重要文化財鎌倉時代像高98.7センチ鎌倉時代東大寺大仏再興尽力した俊乗房重源臨終仏(臨終時に往生者の枕元安置した仏像)と伝える、三尺阿弥陀像で、鎌倉時代仏師快慶作品である。俊乗堂内、向かって右の脇壇に安置される快慶初期の作品比べて量感抑えた肉取になっており、円熟期快慶絵画的装飾的な作風完成見せ作品である。『東大寺諸集』所収の「新造阿弥陀安置由来」という記録に本像の由来書かれている。それによれば、本像は重源私財投じて結縁し、仏師快慶に作らせたもので、建仁2年1202年)から同3年1202年から1203年)にかけて造立され、施主東大寺僧の寛顕、供養導師解脱貞慶(げだつぼうじょうけいであった。本像は前出の寛顕が建保4年1216年示寂した際の臨終仏としても用いられた。寛顕の遺言により、本像は高野山道場安置されるはずであったが、道場火災遭ったため、仁治4年1243年)に東大寺中門堂に安置されたという。以上の由来は、仁治4年1243年)、大法師瞻寛(せんかん)が注進報告したものである。『東大寺諸集』はこれに続けて、本像が享禄2年1529年)に鎮守八幡宮新造屋に移されたと記す。なお、像の足枘銘(くわしく後述)により、像表面截金装飾施されたのは重源没後承元2年1208年であったことがわかる(重源没したのは建永元年1206年)。本像には「釘打ち弥陀」の異称もある。伝説によれば浄土真宗開祖親鸞南都遊学の際、この像が親鸞の後について行こうとするので、それを止めるために、像の左足に釘を打ったという。像は割矧造で、ヒノキの一材を体側前後割り放し、首も割首として、玉眼入れる。左右袖・手先・足先などは別材を矧ぎ肉髻珠にっけいしゅ)と白毫びゃくごう)には水晶嵌入する。X線撮影により、像内には五輪塔などの納入品が存在することが確認されている。像表面金泥の上截金亀甲繋ぎ麻の葉繋ぎなどの文様表し頭髪群青、唇にを差す。光背台座は後補のものである右足枘には梵字の「アン」の刻銘があり(「アン」は快慶の別名「安阿弥陀仏」の最初文字)、左足枘には針書で「広岡ニテ承元二年九月一日細金印始」とある(「細金印始」は「截金を置き始める」意)とある。これらの刻銘針書は、足枘の表面一度削った上に記されているが、当初銘記内容写したものとみなされている。 木造愛染明王坐像 重要文化財平安時代像高98.4センチ。 俊乗堂内、向かって左の脇壇に安置される像。ヒノキ材の寄木造で、頭体の主要部左右の二材から彫出し、膝前、背中などに別材を矧ぐ各所補修が多い。全体細身肉付けが薄い穏やかな作風から、平安時代後期12世紀作品とみられる。もとは山城相楽郡和束の鷲峰山寺(じゅぶせんじ、現・金胎寺)にあったものだが、転々と所在変えた後、明暦年間(1655 - 1657年)に東大寺金珠院の実清法印寄進された。俊乗堂に移されたのは明治以後である。

※この「俊乗堂」の解説は、「東大寺の仏像」の解説の一部です。
「俊乗堂」を含む「東大寺の仏像」の記事については、「東大寺の仏像」の概要を参照ください。

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