運慶作とする説がある作品
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運慶の作とするには確実性を欠くものや、運慶派の流れをくむ鎌倉期の仏師の作品として文化財指定されているものに次のものがある。 奈良・東大寺俊乗堂 俊乗上人(俊乗房重源)坐像(国宝) - 建永元年(1206年)。造像に関する直接の史料がないが、「元亨釈書」などの後世の資料やその作風から運慶の作とする見方がある。 奈良・興福寺 四天王立像(国宝) - もと興福寺南円堂に安置され、同寺中金堂へ移動した四天王像。本来の安置堂宇について諸説があるが、北円堂の無著・世親像と同じく珍しくカツラが材に使われていることなどから、興福寺北円堂の旧像とする説がある。とすれば、運慶指揮下に運慶子息4人が分担して(持国天-湛慶、増長天-康運、広目天-康弁、多聞天-康勝)制作した像に該当することになる。 神奈川・瀬戸神社 舞楽面(重要文化財) - 建保7年(1219年)頃。社伝では源頼朝または源実朝の所用で、北条政子の寄進とされる。裏面に運慶作の追銘があり、作風は運慶に極めて近い。 伝・浄瑠璃寺(京都府)旧蔵 十二神将像(重要文化財) - 建暦2年(1212年)頃か。東京国立博物館(辰神・巳神・未神・申神・戌神の5躯)と静嘉堂文庫美術館(子神・丑神・寅神・卯神・午神・酉神・亥神の7躯)に分蔵。鎌倉時代初期、運慶周辺の有力仏師の作であることには諸家の説が一致する。像高3尺に満たない小像ながら本格的な寄木造とし、布貼下地に彩色を施す入念作であること、浄瑠璃寺が運慶とゆかりの深い興福寺の末寺であったことなどから、本群像を運慶その人の作とみなす研究者もいる。『絵画叢誌』7号(1882年)、『國華』109号(1898年)、同誌116号(1899年)など明治時代の文献には「運慶作」とされている。明治35年(1902年)11月22日付の『毎日新聞』に、十二神将のうちのいずれかの像の胎内に「上坊別当筆、大仏師運慶」の銘があるとの記事があることが、2012年に再発見された。ただし、解体修理等によって当該銘記が確認されたわけではない。2017年には、12体のうち亥神像の胎内に運慶没後5年の安貞2年(1228年)とみられる墨書の存在することが確認された。 大威徳明王(称名寺光明院) 俊乗房重源上人坐像(東大寺) 木造仏頭(興福寺、旧西金堂本尊) 大日如来(真如苑真澄寺) 大日如来(光得寺) 金剛峯寺八大童子(当初像は6体)のうち、左から恵光童子、制多迦童子、矜羯羅童子 金剛峯寺八大童子(当初像は6体)のうち、左から恵喜童子、清浄比丘、烏倶婆誐童子
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