運慶作と確定している作品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 14:10 UTC 版)
奈良・円成寺 大日如来坐像(国宝) - 安元2年(1176年)10月。運慶の真作として確認できる最初の作品。手は智拳印を結ぶが、その位置は一般的な大日如来像よりかなり高く、それによって胸の前に複雑な空間が生じている。また、条帛をわざわざ別材で接ぎ合わせ、より現実に近い造形を試行している。台座蓮肉天板裏面に運慶自署と思われる墨書銘があり、これに拠り運慶は本像を11か月かけて制作し、仏像本体の代金として上品8丈の絹43疋を賜ったことがわかる。当時この仏像のような等身大の像の制作期間はおよそ3か月程度とされ、それよりも遥かに長い日数をかけて造仏していることから、運慶が他の仏師の助力を得ず独力で制作したと考えられる。願主ではなく仏像を作った仏師自らが名を記した現存最古の例としても貴重である。この銘文は大正10年(1921年)に発見され、近代的な運慶研究の端緒となった。 静岡・願成就院 阿弥陀如来坐像、不動明王及び二童子立像、毘沙門天立像(国宝) - 文治2年(1186年)(不動・二童子・毘沙門天像像内納入木札墨書)。5体は2013年(平成25年)に国宝に指定された。 神奈川・浄楽寺 阿弥陀三尊像、不動明王立像、毘沙門天立像(重要文化財) - 文治5年(1189年)(不動・毘沙門天像像内納入木札墨書)。像底に「上げ底式内刳り」を採用した最初の例。一般に寄木造の仏像は、内部を入念に内刳りして椀を伏せたような構造になっている。納入品は台座の上に置かれ、それに被せるように仏像が安置される。そのため火事などの緊急事態に遭うと、像だけが救い出されても納入品はそのまま置き去りにされて失われてしまいがちであった。そこで運慶は、内刳りに際して膝の上の高さで像の底を刳り残して、納入品が像内に封入されるように工夫した。単純な工夫であるが、他派の仏師たちがこの構造を採用するようになるのは鎌倉時代後半になってからである。 奈良・東大寺南大門 金剛力士立像(国宝) - 建仁3年(1203年)。運慶が中心となり、快慶、定覚、湛慶ら一門の仏師を率いて制作。(『東大寺別当次第』、阿形像持物金剛杵墨書、吽形像像内納入経巻奥書) 奈良・興福寺北円堂諸仏 - 建暦2年(1212年)。『猪熊関白記』の記事により運慶一門の作であることがわかる。弥勒仏及び両脇侍像、四天王像、羅漢像2体(無著・世親像)の計9体の群像であった。ただし、両脇侍像は失われ、四天王像も所在不明である(もと興福寺南円堂に安置され、同寺中金堂へ移動した四天王像を旧北円堂像とする説もある。弥勒仏像台座反花内側の墨書に各像の担当仏師の名が記されているが、判読不能箇所が多く、全容は不明である。弥勒仏坐像(国宝)運慶の指導のもと源慶、□慶(1字不明、静慶か)らが制作。 無著菩薩・世親菩薩立像(国宝)運慶の指導のもと運□(1字不明)らが制作。銘文に判読不能箇所があるが、運慶の5男運賀、6男運助らが関与したと推定される。 以上の諸像の制作には、複数の仏師が分担して関与してはいるが、近現代の美術作品のように個々の芸術家の作品ではなく、工房主宰者である運慶の作とみなされている。 神奈川・称名寺光明院 大威徳明王像(重要文化財) - 建保4年(1216年)(像内納入文書)。東寺講堂の模刻像で現在は水牛座が亡失し、同時に製作された大日如来像、愛染明王像は現存しない。伝空海作として子院一ノ室に伝来した。
※この「運慶作と確定している作品」の解説は、「運慶」の解説の一部です。
「運慶作と確定している作品」を含む「運慶」の記事については、「運慶」の概要を参照ください。
- 運慶作と確定している作品のページへのリンク