木造僧形八幡神坐像〈快慶作/(八幡殿安置)〉
主名称: | 木造僧形八幡神坐像〈快慶作/(八幡殿安置)〉 |
指定番号: | 104 |
枝番: | 00 |
指定年月日: | 1957.02.19(昭和32.02.19) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 彫刻 |
ト書: | 像内に東大寺八幡宮安置、建仁元年十二月廿七日開眼、造立施主快慶の銘がある |
員数: | 1躯 |
時代区分: | 鎌倉 |
年代: | 1201 |
検索年代: | |
解説文: | 鎌倉時代の作品。 |
木造僧形八幡神坐像
主名称: | 木造僧形八幡神坐像 |
指定番号: | 108 |
枝番: | 01 |
指定年月日: | 1961.04.27(昭和36.04.27) |
国宝重文区分: | 国宝 |
部門・種別: | 彫刻 |
ト書: | |
員数: | 1躯 |
時代区分: | 平安 |
年代: | |
検索年代: | |
解説文: | 平安時代の作品。 |
木造僧形八幡神坐像
主名称: | 木造僧形八幡神坐像 |
指定番号: | 2100 |
枝番: | 01 |
指定年月日: | 1906.04.14(明治39.04.14) |
国宝重文区分: | 重要文化財 |
部門・種別: | 彫刻 |
ト書: | |
員数: | 1躯 |
時代区分: | 南北朝 |
年代: | 修理銘 1418 |
検索年代: | |
解説文: | 南北朝時代の作品。 |
木造僧形八幡神坐像
木造僧形八幡神坐像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:27 UTC 版)
国宝。鎌倉時代。像高87.1センチ。鎌倉時代の仏師・快慶の作。写実表現の的確さと仕上げの入念さから、快慶の代表作の一つに数えられている。もとは東大寺鎮守の八幡宮(現・手向山八幡宮)の神体として祀られていた像で、明治初年の神仏分離の際に東大寺に移された。現在は大仏殿の西方にある勧進所八幡殿に安置されている。平素は非公開で、毎年10月5日のみ公開される。僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)とは、本地垂迹説に基づき、八幡神(応神天皇、誉田別尊)を仏教の僧侶の姿に表したものである。八幡神は、東大寺の大仏建立の際にも神託を下し助成したとされる、東大寺とはゆかりの深い神である。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では、東大寺や興福寺の伽藍とともに東大寺鎮守の八幡宮も焼失した。治承の兵火後の東大寺の復興を主導した俊乗房重源は、鎮守八幡宮の再建にあたり、当時、鳥羽の勝光明院宝蔵にあった八幡神画像を請い受けて八幡宮の神体にしようと考えていた。その八幡神画像は、京都高雄の神護寺から鳥羽天皇に献上されたものであったが、神護寺の僧・文覚による返還運動の結果、同画像は神護寺に返還されることになった。重源はやむをえず、件の画像の代わりに彫像の僧形八幡神像を快慶に造らせることとしたものである。勝光明院にあった八幡神画像の原本は現存しないが、神護寺には鎌倉時代に制作された同画像の写しがある。この写しを東大寺の僧形八幡神像と比較すると、額のしわの数などの細部に至るまで一致しており、快慶が画像を忠実に写した彫像の制作を意図していたことが明らかである。本像は法衣の上に袈裟を着けて坐す僧形像で、右手に錫杖、左手に数珠(亡失)を持ち、蓮華座上に坐す。保存状態がよく、像表面には当初の彩色が残り、台座、光背、持物の錫杖も当初のものが残る。頭体の主要部は正中線で左右二材矧ぎとし、これに両体側部、膝前、両腰脇、両手先などに別材を矧ぎ足す。本像は快慶作品には珍しく玉眼を用いず、瞳の部分に黒漆状のものを塗って眼光を表現する。本像における玉眼の不使用は、割首(木造の仏像制作時に、面相部の仕上げなどのために、頸部にノミを入れて割り放すこと)をしていないこととともに、神像としての聖性、神威を表したものと解釈されている。肉身部は肉色に塗り、法衣は黄褐色の上に衣文の縁の部分に金泥彩を施す。袖口や襟元からわずかにのぞく下衣には白群を塗る。袈裟はその図柄から「遠山袈裟」と呼ばれるもので、条葉部(縁取り)は群青で塗った上に金泥の線で縁取り、田相部(「条葉」で囲まれた四角い区画)は黄褐色の地に緑青、群青、代赭などの繧繝彩色(うんげんさいしき)で遠山文様を表す。台座は請花のみの一重座で、蓮弁を朱と緑青の繧繝彩色とする。円形の光背は木製、漆箔仕上げとし、縁部は銅製鍍金である。像内は麻布を貼った上に、聖性を表す赤色顔料(丹)を塗った入念な仕上げとし、その上に長文の銘文が記されている。銘文には「建仁元年十二月廿七日御開眼」の年記とともに、施主として「巧匠アン阿弥陀仏快慶」(「アン」は梵字)の名があり、続いて小仏師28人、漆工3人、銅細工1人の名がある。続けて、願主として今上天皇(土御門天皇)、七条女院(藤原殖子)、太上天皇(後鳥羽院)、八条女院(暲子内親王)、東大寺別当弁曉、守覚法親王(仁和寺、後白河天皇息子)、明恵、明遍等の名がある。この銘文中には東大寺復興大勧進(総責任者)の重源の名が見えず、仏師である快慶が施主でもあるように書かれていること、小仏師28人の中に「運慶」の名があることなどの謎があり、本像がなんらかの特殊な事情のもとに造像されたことを示唆している。
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