幕末にかけての武家火消の活動
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「火消」の記事における「幕末にかけての武家火消の活動」の解説
享保の改革による町火消の確立後、幕末にかけて江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へと移行していく。元文元年(1736年)以降、方角火消は江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる。寛政4年(1792年)には、定火消が町人地へ出動しないことになった(風の強い日に起きた火事のみは例外であった)。文政2年(1819年)には定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は町火消の担当となった。こうした武家火消の出動範囲減少は、町火消の能力が幕府に認められたためであった。 黒船来航から2年後の安政2年(1855年)、定火消が2組削減されて8組となる。文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止され、所々火消も削減されて担当が11箇所から3箇所となった。慶応2年(1866年)には定火消8組が半減されて4組に、翌慶応3年には1組128名のみの構成となり、江戸の消防体制は町火消へ全面的に依存するようになる。この定火消の大幅な削減は、幕府の洋式軍備拡大が原因であり、大名火消の削減は文久の改革による参勤交代の緩和が原因であった。 明治元年(1868年)、新政府によって武家火消はすべて廃止され、代わりの消防組織として火災防御隊が設けられた。火災防御隊は兵部省に所属し、皇城(江戸城)の消防を担当すると定められたが、翌年には廃止されている。
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