幕末にかけての町火消の活動
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町火消の出動範囲は、当初町人地に限定されていた。しかしいろは組成立時には、町人地に隣接する武家地が火事であり、消し止められそうにない場合は消火を行うこととなった。享保7年(1722年)には2町(約218m)以内の武家屋敷が火事であれば消火することが命じられる。以降も享保16年(1731年)に幕府の施設である浜御殿仮米蔵の防火が「す組」などに命じられたことをはじめ、各地の米蔵・金座・神社・橋梁など重要地の消防も町火消に命じられていった。 延享4年(1747年)の江戸城二の丸火災においては、はじめて町火消が江戸城内まで出動することとなった。二の丸は全焼したが、定火消や大名火消が消火した後始末を行い、幕府から褒美が与えられた。以後も天保9年(1838年)の西の丸出火や同15年(1844年)の本丸出火などで江戸城内へ出動し、目覚しい働きを見せたことにより、いずれも褒美が与えられている。 幕末には、定火消が1組のみに改編されるなど武家火消が大幅に削減され、江戸の消防活動は完全に町火消へと委ねられた。さらに、町火消の活動は消防のみにとどまらず、黒船来航時には市中警備を、戊辰戦争時には治安維持活動も行なっている。また、元治元年(1864年)の長州征討において、長州藩江戸藩邸の破壊が町火消に命じられており、鳥羽・伏見の戦い敗北後には町火消に兵事訓練を行なうなど、衰退する幕府に兵力として組み込もうとする動きもあった。 明治5年(1872年)、新政府によって町火消は消防組39組へと改められ、その活動は現在の消防団へと繋がっていく。のちに大正元年(1912年)、町火消成立以降に殉職した火消の慰霊と顕彰を目的とし、浅草寺に「消防殉職者表彰碑」が建立された。第2次世界大戦までは11月3日に、戦後は5月25日に慰霊祭が行なわれている。
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