幕末にかけての町火消の活動とは? わかりやすく解説

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幕末にかけての町火消の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 01:29 UTC 版)

火消」の記事における「幕末にかけての町火消の活動」の解説

町火消出動範囲は、当初町人地限定されていた。しかしいろは組成立時には、町人地隣接する武家地火事であり、消し止められそうにない場合消火を行うこととなった享保7年1722年)には2町(約218m)以内武家屋敷火事であれば消火することが命じられる以降享保16年1731年)に幕府施設である浜御殿米蔵防火が「す組」などに命じられたことをはじめ、各地米蔵金座神社橋梁など要地消防町火消命じられていった延享4年1747年)の江戸城二の丸火災においては、はじめて町火消江戸城内まで出動することとなった二の丸全焼したが、定火消大名火消消火した後始末行い幕府から褒美与えられた。以後天保9年1838年)の西の丸出火や同15年1844年)の本丸出火などで江戸城内へ出動し目覚しい働き見せたことにより、いずれも褒美与えられている。 幕末には、定火消1組のみに改編されるなど武家火消大幅に削減され江戸消防活動は完全に町火消へと委ねられた。さらに、町火消活動消防のみにとどまらず黒船来航時には市中警備を、戊辰戦争時には治安維持活動行なっている。また、元治元年1864年)の長州征討において、長州藩江戸藩邸破壊が町火消命じられており、鳥羽・伏見の戦い敗北後には町火消兵事訓練行なうなど、衰退する幕府兵力として組み込もうとする動きもあった。 明治5年1872年)、新政府によって町火消消防組39組へと改められその活動現在の消防団へと繋がっていく。のちに大正元年1912年)、町火消成立以降殉職した火消慰霊顕彰目的とし、浅草寺に「消防殉職者表彰碑」が建立された。第2次世界大戦までは11月3日に、戦後5月25日慰霊祭が行なわれている。

※この「幕末にかけての町火消の活動」の解説は、「火消」の解説の一部です。
「幕末にかけての町火消の活動」を含む「火消」の記事については、「火消」の概要を参照ください。

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