幕末の久留米藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/11 08:21 UTC 版)
「有馬頼咸」および「山梔窩」も参照 江戸時代後期の久留米藩では、水天宮祠官の真木保臣(真木和泉)らによって水戸学・尊王思想が広がり、藩内に「天保学派」と言われるグループが形成されて藩政改革が試みられた。しかし藩主有馬頼永の後継問題をめぐり「天保学派」は「内同志」と「外同志」に分裂して厳しく対立。嘉永5年(1852年)、「嘉永の大獄」と呼ばれる政変が発生し、真木を指導者とする「外同志」は失脚した。有馬慶頼(大政奉還後に改名し有馬頼咸)を藩主とする幕末期の久留米藩は、不破正寛(不破美作)・今井栄ら「内同志」が門閥派と提携して執政にあたり、佐幕開明路線を取った。 政争に敗れた「外同志」(以後、「尊王攘夷派」)は迫害を受け、指導者である真木は山梔窩で蟄居を余儀なくされた。尊王攘夷派の謹慎は10年余りに及んだが文久3年(1863年)に解除され、真木や水野正名らは京都に上って国事に奔走することになる。元治元年(1864年)の禁門の変で真木が敗死すると、水野が久留米藩尊王攘夷派の領袖となった。
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