揚亀園
名称: | 揚亀園 |
ふりがな: | ようきえん |
種別: | 名勝地関係 |
種別2: | |
都道府県: | 青森県 |
市区町村: | 弘前市 |
管理団体: | |
登録年月日: | 2007.07.26(平成19.07.26) |
登録基準: | 登-名1 |
追加登録年月日: | |
解説文: | 江戸時代末期から近代にかけて、津軽地方には「大石武学流」と称する作庭の流派が風靡し、多くの庭園が造られた。そのうちの一つが揚亀園で、弘前の実業家であった中村三次郎(1859~1939)の求めに応じて明治時代後期に小幡亭樹が作庭を開始し、後に池田亭月が手を加えたとされる。三次郎は、大正8年(1919)に市内の呉服商から譲り受けた離れ座敷を庭園の東北隅部に茶室として移築し、「揚亀庵」と名付けて庭園を完成させた。 庭園は、石で護岸された複雑な汀線から成る池を中心として、敷地の東端に茶室である揚亀庵を配置し、西端になだらかな築山を造成している。揚亀庵の縁先に立つと、池の水面を前景として、その背後に控える築山の樹間から、弘前城跡の樹叢をはじめ遥かに岩木山の秀麗な山容を遠望することができる。縁先の沓脱石からは、池の東岸に据えられた「礼拝石」と呼ぶ大きな景石に向かって飛石が間隔広く打たれ、広々とした水面の中央に浮かぶ中島と、対岸に当たる築山の左右奥部に渓谷を模して設けられた枯流れ及び枯滝石組を望むことができる。池を一周する園路の途上からは、2ヶ所に架けられた木橋のほか、雪見燈籠などの石燈籠、枯流れの奥に設けられた枯滝石組、庭園の主木を成す傘形のクロマツなど、小さな敷地の随所に配置された勝景を楽しむことができる。また、揚亀庵の南側のやや離れた位置には富士山形の手水鉢を備えた「離れ蹲踞」があり、北側には「二神石」と呼ぶ石組を設けるなど、大石武学流庭園に特有の作風が見られる。 以上のように、揚亀園は幕末から近代の津軽地方を風靡した大石武学流の独特の作風を伝える庭園の一つで、造園史上の意義は深く、同時代の類型の中でも、特に意匠又は構造面の特徴となる造形をよく遺していると考えられる。 |
揚亀園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 01:28 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動揚亀園(ようきえん)は、青森県弘前市亀甲町の観光施設津軽藩ねぷた村にある日本庭園。津軽で盛んであった大石武学流の造園を代表する庭園である。国の登録記念物。
歴史
江戸時代末期より近代にかけ、津軽地方には大石武学流と称する作庭の流派が風靡した影響で造られた庭園の一つで、弘前の実業家中村三次郎(1859年~1939年)の依頼により明治時代後期に大石武学流の四代目宗家・小幡亭月が作庭を行い、五代目宗家・池田亭月がその後、手を加えたとされている。三次郎は大正8年(1919年)に弘前市内の呉服商から譲り受けた離れ座敷を庭園東部に茶室として移築し揚亀庵(弘前市指定文化財)と名付け庭園を完成させた。
特徴
石で護岸された複雑な汀線から成る池を中心として、敷地の東端に茶室である揚亀庵を配置し、西端になだらかな筑山を造成している。筑山の樹間からは津軽冨士岩木山と弘前公園の老松が見え、池の東岸の礼拝石に向かい飛石が打たれており、池に浮かぶ中島、対岸に設けられた渓谷を模して造られた枯流れ・枯滝石組を眺望できる。2か所に架けられた木橋や石灯籠、傘型のクロマツなども配置されている。
概要
外部リンク
- 津軽藩ねぷた村 - 公式サイト
- 揚亀園のページへのリンク