開業以後
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「スピンネーカー・タワー」の記事における「開業以後」の解説
スピンネーカー・タワーは2005年10月18日に開業し、街の歴史を反映させた、船の帆をイメージした形状で、ポーツマスのランドマークとして定着し、国内のみならず海外にもポーツマスの存在感を示した。開業初年度には60万人の来場者数を記録しており、英国政府観光庁の最高責任者であるトム・ウライトは「スピンネーカー・タワーは早くも海外の観光客の旅行プランに組み込まれるような必ず訪れるべき場所のひとつになった」と述べた。その後2007年9月にはタワーの訪問者が100万人に到達した。このように当初は多くの観光客を呼び集めたものの、徐々に減少傾向にあったことから、フリーフォールライドの導入を計画している。また、観光客の増加を見込んで、周辺に軍艦メアリー・ローズ号の博物館が2013年5月に完成している。2010年には世界大タワー連盟に32番目として加盟した。
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開業以後
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1964年(昭和39年)10月1日:東海道新幹線 東京 - 新大阪間開業。1-1ダイヤ 0系12両編成で最高速度200 km/h。東京 - 新大阪間を「ひかり」4時間、「こだま」5時間、で運行された。当時は、東京駅・品川信号場・新横浜駅・小田原駅・熱海駅・静岡駅・浜松駅・豊橋駅・名古屋駅・岐阜羽島駅・米原駅・京都駅・鳥飼信号場・新大阪駅の12駅2信号場。料金は運賃・特急料金とをあわせて2,480円だった。 11月23日:静岡県磐田市で「こだま」が保線作業員をはねる。5名が死亡、5名が重軽傷を負う。 1965年(昭和40年)4月15日:新大阪駅1番線完成により使用開始。 4月20日:静岡県を震源とするM6.1の地震が発生。静岡市周辺の盛土が崩れた。 9月27日:三島信号場開設(同所に引上線を設置。のちに引上線のほかにも電留線を設置)。全線の駅・信号場の数は12駅3信号場となる。 10月1日:暫定2-2ダイヤ 増発、「ひかり」・「こだま」30分間隔に。 11月1日:2-2ダイヤ 路盤安定を受け、東京 - 新大阪間は「ひかり」3時間10分、「こだま」4時間運転に。 1966年(昭和41年)4月25日:新大阪発東京行き「ひかり42号」が、豊橋駅手前で異常振動により緊急停車。乗員乗客にけがはなかった。製造時の問題と金属疲労に伴う最後尾車両の車軸折れが原因。 9月:静岡電留線設置。 1967年(昭和42年)3月10日:東京駅16番線完成により使用開始。 10月1日:3-3ダイヤ 増発、「ひかり」・「こだま」20分間隔(毎時6本)に。 1969年(昭和44年)4月25日:三島信号場を駅に格上げして三島駅開業。駅・信号場の数は全線で13駅2信号場となる。これにより「こだま」は東京駅 - 新大阪駅間4時間10分に。 10月1日:翌年の大阪万博を控え、臨時「こだま」をダイヤに組み込んだ3-3(変則3-6)ダイヤ(通常は3-3ダイヤ、多客期は「こだま」を増発し3-6ダイヤ)とする。 12月8日:「ひかり」16両編成運転開始。 1970年(昭和45年)8月15日:大阪運転所が東海道新幹線支社から新幹線総局の管轄に移行。 19xx年:大阪運転所が大阪第一運転所に改称し、乗務員部門が大阪第二運転所として分離。 1972年(昭和47年)3月15日:山陽新幹線 新大阪 - 岡山間開業。4-4ダイヤ 「ひかり」・「こだま」15分間隔(毎時8本)、「ひかり」毎時3本が岡山駅へ直通。 6月29日:「こだま」、16両編成運転開始。 10月2日:「ひかり」、3往復が米原に新規停車。 大井車両基地 回送路線が分岐する田町駅付近 1973年 (昭和48年)2月21日:大阪運転所(鳥飼基地)からの回送列車が脱線事故。ATC管理下の事故として問題に(東海道新幹線大阪運転所脱線事故を参照)。 9月1日:東京運転所大井支所(現・大井車両基地)発足。同時に田町駅で分岐し同基地へ至る回送路線を設置。 1974年(昭和49年)9月12日:東京運転所(品川基地)入出庫線合流地点でATCに異常信号が発生。翌13日終日まで混乱。 11月12日:新大阪駅構内でATCに異常信号が発生。14日終日まで混乱。 12月11日:新幹線臨時総点検のため東京 - 新大阪間が午前中運休。翌年2月までに4回実施。 1975年(昭和50年)1月20日:東京運転所が東京第一運転所・東京第二運転所に分割。 3月10日:山陽新幹線 岡山 - 博多間開業。東京駅ホーム増強工事が間に合わず変則4-4ダイヤ(5-5ダイヤから「ひかり」・「こだま」各1本を間引き)。 7月:東京駅3ホーム体制完成を受け5-5ダイヤに移行、「ひかり」・「こだま」12分間隔(毎時10本)、「ひかり」毎時4本が山陽新幹線へ直通、「ひかり」1往復が新横浜・静岡に新規停車。 11月26日-12月3日:スト権ストにより8日間運行が全面マヒする。 1976年(昭和51年)2月25日:1974年(昭和49年)の臨時総点検の結果を受け、若返り工事のため東京 - 新大阪間が午前中運休。1982年(昭和57年)1月27日まで計44回実施。 7月1日:「ひかり」1往復が新横浜駅・静岡駅に新規停車。 7月9日:@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}この日の「こだま210号」が新丹那トンネル内で運転手不在の「無人走行」を行なっていたことがのちに判明。当初は「三島駅で交替の運転士が腹痛により乗り遅れ、運転台に便乗の運転士がCTC指令の指示により代替を勤めた」としていたが、実際は運転手が出発直前、走行可能な状態にしたまま客ドアの異常点検を行なって結果電車から閉め出されたことと、無人走行に気づいた車両検査掛が「客席に便乗していた」運転士に代替を頼むまで13 kmも走行していたことが3か月後の新聞スクープにより発覚した。[要検証 – ノート] 1978年(昭和53年)7月4日:豊橋 - 名古屋間で架線切断。約5時間不通。51本運休。 1980年(昭和55年)4月6日:名古屋 - 岐阜羽島間で架線が切れ、東京 - 博多間が夜まで約7時間全面不通となり、上下83本が立往生、33本が運休。皇太子夫妻(現上皇・上皇后)が「ひかり113号」に乗り合わせておりこの障害の影響を受けた。 10月1日:「ひかり」を小田原駅・浜松駅・豊橋駅・岐阜羽島駅に新規停車。 1981年(昭和56年)5月15日:世界銀行からの借入金を完済。元利払いは一度も滞ることはなかった。 11月26日:栗東信号場開設。全線の駅・信号場数は13駅3信号場となる。 1983年(昭和58年)3月20日:三島 - 静岡間の蒲原トンネルで架線切断。30本運休。最大約5時間遅れ。 1984年(昭和59年)4月11日:「こだま」は利用者減少で12両に減車を始める。 1985年(昭和60年)3月14日:6-4ダイヤ 「ひかり」が新横浜駅に毎時2本・静岡駅に毎時1本・小田原駅・熱海駅・三島駅・浜松駅・豊橋駅のうち2駅に毎時1本停車。また、「ひかり」を熱海駅・三島駅に新規停車。さらに余裕時分の見直しなどにより東京 - 新大阪間「ひかり」3時間8分、「こだま」毎時1本を東京 - 三島間に短縮。 10月1日:100系が営業運転開始。2階建て車両登場。 1986年(昭和61年)11月1日:国鉄最後のダイヤ改正。最高速度を220 km/hに引き上げ、東京駅 - 新大阪駅間「ひかり」2時間56分運転とする。 1987年(昭和62年)3月1日:大阪第一運転所・大阪車掌所の山陽新幹線担当が大阪新幹線運転所として分離。
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