財部村とは? わかりやすく解説

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財部町

(財部村 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 04:16 UTC 版)

たからべちょう
財部町
桐原の滝
町旗 町章
1966年11月1日制定
廃止日 2005年7月1日
廃止理由 新設合併
財部町大隅町末吉町曽於市
現在の自治体 曽於市
廃止時点のデータ
日本
地方 九州地方
都道府県 鹿児島県
曽於郡
市町村コード 46463-5
面積 115.72 km2
総人口 10,924
国勢調査、2000年)
隣接自治体 国分市、曽於郡末吉町、姶良郡霧島町福山町宮崎県都城市
財部町役場
所在地 899-4101
鹿児島県曽於郡財部町南俣11275番地
町役場(曽於市財部支所)
座標 北緯31度43分34秒 東経130度59分36秒 / 北緯31.72611度 東経130.99336度 / 31.72611; 130.99336座標: 北緯31度43分34秒 東経130度59分36秒 / 北緯31.72611度 東経130.99336度 / 31.72611; 130.99336
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財部町(たからべちょう)は、鹿児島県曽於郡に存在した。旧東囎唹郡

地理

鹿児島県の北東部に位置し、県都の鹿児島市までは63キロメートル。北および東は宮崎県都城市、南は末吉町、西は国分市霧島町福山町が隣接。総面積は115.72平方キロメートル。

歴史

  • 1873年(明治4年) - 廃藩置県により鹿児島県に属し、後に都城県が設置され編入。
  • 1889年(明治22年)4月1日 - 財部郷一帯の下財部村, 南俣村, 北俣村を合併し、東囎唹郡財部村として誕生。
  • 1897年(明治30年)4月1日 - 東囎唹郡が南諸県郡と統合され囎唹郡となる[1]
  • 1926年(大正15年) - 町制を施行し財部町となる。
  • 1972年(昭和47年)4月1日 - 囎唹郡が曽於郡に改称。
  • 1976年(昭和51年) - 町制施行50周年記念式典。町民憲章制定。
  • 2005年(平成17年)7月1日 - 隣接する末吉町大隅町と合併し曽於市となったことに伴い消滅した。

町名の由来

敏達天皇の時代に、豊穣を願って日の御子とされる穀霊を招き降ろし、朝日が直射する東向きの聖地で収穫された稲を供えて祀る、新誉の儀礼を司る日奉部が置かれ、後に「財日奉部」と称され、これが起源となったといわれている。

主な産業

地域

学校教育

小学校

中学校

高等学校

電話

市外局番は宮崎県都城市と一緒の (0986) である。

交通

鉄道

九州旅客鉄道(JR九州)

道路

鹿児島県道2号 都城隼人線(財部町南俣)
高速道路
一般国道
主要地方道
道の駅

観光・史跡

洞穴内より開口部方向を望む
  • 観光スポット
    • 大川原峡 - 悠久の森
    • 桐原の滝
    • 白鹿岳(曽於郡で一番標高の高い山)
    • 溝ノ口洞穴 - 国の天然記念物
  • 史跡
    • 龍虎城跡

その他

大日本帝国陸軍第57軍司令部。第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)4月8日に編成され、第16方面軍隷下鹿児島県財部町城山に在って連合軍の九州南部上陸に備えていたが、連合軍の九州南部上陸は無く当地で終戦を迎えた。

脚注

  1. ^ 『官報』第3822号、明治29年3月30日。

関連項目




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