チンギス・カンのケシクテイ創設とは? わかりやすく解説

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チンギス・カンのケシクテイ創設

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 16:40 UTC 版)

ケシク」の記事における「チンギス・カンのケシクテイ創設」の解説

ナイマン部征服しモンゴル高原統一したチンギス・カン1206年モンゴル帝国建国し、国家体制整備取りかかったチンギス・カン先に制定したケシク規模大幅に拡大し、1千のコルチ(箭筒士)、1千のトルカウト(侍衛)、8千のトルカウト(侍衛)からなる1万ケシク制度定められた。チンギス・カン同時にケシク隊員千人隊長(ミンガン)のノヤンより上位にあり、両者争えばミンガンの方を罰する」と語ってケシク特権的な地位明らかにし、ケシクを「Yeke qol(大中軍)」と呼称して自らの直属軍の中核位置づけた。また、1206年以前からケシク務めていた者達はこの新設ケシク中でも特に重用され、「老宿営」「大侍衛」などと呼称された。1万定員とするケシク制度はこれ以後大きな改変蒙ることなく大元ウルス末期まで存続する。 ただし、宿営/侍衛/箭筒士という分類は『元朝秘史』にのみ見られるもので、『元史』や『集史』には記載がない(ただ、類似する名称・概念存在する)ため、この分類の正確性疑問視する説もある。例えば、「1千の宿営」は隊長(イェケ・ネウリン=ヌレ・ノヤン)が一致することなどから『集史』における「チンギス・カン直属千人隊hazāra-yi khāṣṣ-i Chīnkkīz Khān)」に相当する説があるが、『集史』には「チンギス・カン千人隊」とケシクもしくはコルチ・トルカウトとの関係については全く記載がない。また、元史』では『元朝秘史』で「宿営職務」として記される内容が「ケシク全体業務」として記されており、ケシク宿営/侍衛/箭筒士との関係は不明な点が多い。

※この「チンギス・カンのケシクテイ創設」の解説は、「ケシク」の解説の一部です。
「チンギス・カンのケシクテイ創設」を含む「ケシク」の記事については、「ケシク」の概要を参照ください。

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