チンギス・カンのケシクテイ創設
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「ケシク」の記事における「チンギス・カンのケシクテイ創設」の解説
ナイマン部を征服しモンゴル高原を統一したチンギス・カンは1206年モンゴル帝国を建国し、国家体制の整備に取りかかった。チンギス・カンは先に制定したケシクの規模を大幅に拡大し、1千のコルチ(箭筒士)、1千のトルカウト(侍衛)、8千のトルカウト(侍衛)からなる「1万のケシク」制度が定められた。チンギス・カンは同時に「ケシク隊員は千人隊長(ミンガン)のノヤンより上位にあり、両者が争えばミンガンの方を罰する」と語ってケシクの特権的な地位を明らかにし、ケシクを「Yeke qol(大中軍)」と呼称して自らの直属軍の中核に位置づけた。また、1206年以前からケシクを務めていた者達はこの新設ケシクの中でも特に重用され、「老宿営」「大侍衛」などと呼称された。1万を定員とするケシク制度はこれ以後大きな改変を蒙ることなく、大元ウルス末期まで存続する。 ただし、宿営/侍衛/箭筒士という分類は『元朝秘史』にのみ見られるもので、『元史』や『集史』には記載がない(ただ、類似する名称・概念は存在する)ため、この分類の正確性を疑問視する説もある。例えば、「1千の宿営」は隊長(イェケ・ネウリン=ヌレ・ノヤン)が一致することなどから『集史』における「チンギス・カン直属の千人隊(hazāra-yi khāṣṣ-i Chīnkkīz Khān)」に相当する説があるが、『集史』には「チンギス・カンの千人隊」とケシクもしくはコルチ・トルカウトとの関係については全く記載がない。また、『元史』では『元朝秘史』で「宿営の職務」として記される内容が「ケシク全体の業務」として記されており、ケシクと宿営/侍衛/箭筒士との関係は不明な点が多い。
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