チンギス・カンの華北征服とは? わかりやすく解説

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チンギス・カンの華北征服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 14:47 UTC 版)

投下 (モンゴル帝国)」の記事における「チンギス・カンの華北征服」の解説

モンゴル帝国基本制度定めたチンギス・カンは、ついで周辺諸国への侵攻開始した1211年辛未)に始まる金朝遠征では、右翼軍を諸子のジョチ・チャガタイ・オゴデイらが率いて山西地方に、左翼軍を諸弟のカサル・アルチダイ・オッチギンらが率いて山東地方に、チンギス・カン自らが直属軍を率いて河北地方に、それぞれ侵攻したこのような遠征軍編成前述したモンゴル帝国基本形」をそのまま遠征軍援用したものであった。3軍はそれぞれ華北各地制圧したが、征服先で捕虜となった人々は、「捕虜とした王侯」の所有民(後の投下)とされた。 1215年乙亥)に金朝遠征一段落すると、チンギス・カンは「諸侯王城邑分けた(分撥諸侯王城邑)」という。旧説では「投下」の設定オゴデイ時代に始まるものとされていたが、実際にはこのチンギスによる城邑分配が後の華北投下原型となった考えられている。これを裏付けるように、ベルシア語史料の『集史』「チンギス・カン紀」にはこの金朝遠征によってチャガタイが「タイユァンフ(太原府)」、トゥルイが「チャガン・バルガスン(=真定府)」を与えられたことが記されているが、太原路と真定路オゴデイ時代それぞれチャガタイ家トゥルイ家の役下とされた地である。 また、このような投下設定平行して華北には「漢人世侯」と呼ばれる軍閥現れ始めたモンゴル軍による掠奪金朝行政機構崩壊によって極度に治安の悪化した華北では軍事的才幹があり人望ある者が推戴され自治組織作り上げる動き各地見られた。これらの地方集団貢納軍事的協力条件モンゴル投降することで華北における支配権認められ、「漢人世侯」と呼ばれる軍閥形成した漢人世侯中でも特に有力な軍閥は自らの息子を質子(トルカク)として差し出すことで投下領主結びつくことで後ろ盾得て征服地の統治無関心なモンゴル人に代わって華北行政担った真定史家西京の劉家、済南張家それぞれの投下領主たるトゥルイ家オゴデイ家カチウン家と密接に結びつき両者の関係後々まで続いた漢人世侯登場により荒廃した華北復興向かったが、現地実情無関係に投下モンゴル王侯の間で分割されたことや、モンゴル皇帝-モンゴル王侯-漢人世侯という三重権力構造となったことから、華北各種権益入り乱れる混沌とした情勢になった。この状況打開オゴデイクビライといった後のモンゴル皇帝課題となる。

※この「チンギス・カンの華北征服」の解説は、「投下 (モンゴル帝国)」の解説の一部です。
「チンギス・カンの華北征服」を含む「投下 (モンゴル帝国)」の記事については、「投下 (モンゴル帝国)」の概要を参照ください。

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