チンギス・カンの華北征服
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「投下 (モンゴル帝国)」の記事における「チンギス・カンの華北征服」の解説
モンゴル帝国の基本制度を定めたチンギス・カンは、ついで周辺諸国への侵攻を開始した。1211年(辛未)に始まる金朝遠征では、右翼軍を諸子のジョチ・チャガタイ・オゴデイらが率いて山西地方に、左翼軍を諸弟のカサル・アルチダイ・オッチギンらが率いて山東地方に、チンギス・カン自らが直属軍を率いて河北地方に、それぞれ侵攻した。このような遠征軍の編成は前述した「モンゴル帝国の基本形」をそのまま遠征軍に援用したものであった。3軍はそれぞれ華北各地を制圧したが、征服先で捕虜となった人々は、「捕虜とした王侯」の所有民(後の投下)とされた。 1215年(乙亥)に金朝遠征が一段落すると、チンギス・カンは「諸侯王に城邑を分けた(分撥諸侯王城邑)」という。旧説では「投下」の設定はオゴデイ時代に始まるものとされていたが、実際にはこのチンギスによる城邑の分配が後の華北投下の原型となったと考えられている。これを裏付けるように、ベルシア語史料の『集史』「チンギス・カン紀」にはこの金朝遠征によってチャガタイが「タイユァンフ(太原府)」、トゥルイが「チャガン・バルガスン(=真定府)」を与えられたことが記されているが、太原路と真定路はオゴデイ時代にそれぞれチャガタイ家とトゥルイ家の役下とされた地である。 また、このような投下の設定に平行して華北には「漢人世侯」と呼ばれる軍閥が現れ始めた。モンゴル軍による掠奪、金朝の行政機構の崩壊によって極度に治安の悪化した華北では軍事的才幹があり人望ある者が推戴され自治組織を作り上げる動きが各地で見られた。これらの地方集団は貢納と軍事的協力を条件にモンゴルに投降することで華北における支配権を認められ、「漢人世侯」と呼ばれる軍閥を形成した。漢人世侯の中でも特に有力な軍閥は自らの息子を質子(トルカク)として差し出すことで投下領主と結びつくことで後ろ盾を得て、征服地の統治に無関心なモンゴル人に代わって華北の行政を担った。真定の史家、西京の劉家、済南の張家はそれぞれの投下領主たるトゥルイ家、オゴデイ家、カチウン家と密接に結びつき、両者の関係は後々まで続いた。 漢人世侯の登場により荒廃した華北は復興に向かったが、現地の実情と無関係に投下がモンゴル王侯の間で分割されたことや、モンゴル皇帝-モンゴル王侯-漢人世侯という三重の権力構造となったことから、華北は各種権益の入り乱れる混沌とした情勢になった。この状況の打開がオゴデイ、クビライといった後のモンゴル皇帝の課題となる。
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