「ウルス」の特色
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:25 UTC 版)
「オゴデイ・ウルス」の記事における「「ウルス」の特色」の解説
詳細は「ウルス」を参照 ウルスは一般的に「国家」と訳されるものの本来の意味は「人々の集団」であり、「オゴデイ・ウルス」も本義としては「オゴデイの国」ではなく「[チンギス・カンによって分け与えられた]オゴデイの有する遊牧民集団」を意味する。 ウルスが一般的な国家観と決定的に異なる点は、「領地」ではなく「領民」をその根幹とすることである。チンギス・カンから諸子・諸弟へ分与されたのはあくまで「人々(モンゴル語:irgen/ペルシア語:nafar)」であって、「領地」や「国家」ではなかった。遊牧民にとって「ウルス」とは「人々の集まり(人民)」を第一義とするものであり、「領地」はそれに次ぐものであった。 このような「ウルス」の特徴はモンゴリア以外の領土を分割する際にも影響を与えた。華北の金朝・江南の南宋を滅ぼした後、モンゴル帝国は征服地を「投下領」領として諸王・功臣に分割していたことが知られているが、この「投下」領の分割は各ウルスの有する遊牧民の人口を基準に決定されていた。諸王は自らの有する遊牧民の約10倍の人口を有する地方を、功臣は約5倍の人口を有する地方をそれぞれ「投下」として与えられているが、これはまず与えられる「領民」が決定され、然る後に与えられる「領土」も決定された証左である。このような基準に従って、チンギス・カンの時代に4つの千人隊を有するオゴデイ・ウルスには45945戸を有する西京路が与えられ、オゴデイ・カアンの時代に4つの千人隊を有するコデン・ウルスには47741戸を有する東昌路が与えられている。 また、モンゴル社会では逆に領地を失っても領民を失っていなければ「ウルス」は存続していると見なされていた。14世紀初頭に「カイドゥの国」が解体すると中央アジアの領地を失ったオゴデイ家の諸王は大元ウルス領内に移住したが、大元ウルスからは独自の「所部(=ウルス)」を有する諸王として把握されていた。
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