「ウーンデッド・ニー占拠」への参加
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「レナード・ペルティエ」の記事における「「ウーンデッド・ニー占拠」への参加」の解説
1973年2月27日、スー族の長老と酋長、OSCROと、レナードらAIMの多部族メンバーは、83年前に合衆国によってスー族が大虐殺された「チャンクペ・オピ」(ウーンデッド・ニー)へと行進し、聖心カトリック教会を占拠。塹壕を掘ってここを本拠としてウィルソンの罷免と連邦政府によるインディアン条約の再確認を求めて占拠抗議を行った。 この一大占拠に対してウィルソンはグーンズ、BIA警察、州警察、FBIの250人を超える包囲隊を結成し、ポーキュパイン村に、ペンタゴンの指令を受けて、全米から派遣された連邦憲兵隊が殺到した。米軍はウィルソンのために、M113装甲兵員輸送車を16台、戦闘用ヘリコプター3機、F4ファントム戦闘機を投入し、現代アメリカにおける「インディアン戦争」は、全世界に衝撃を与えた。この「ウーンデッド・ニー占拠抗議」は71日間に及び、二人のインディアンの犠牲者を出して1973年5月8日に解かれた。 1974年1月2日、連邦政府とFBIは、「ウーンデッド・ニー占拠主導者統一裁判」として、ミネソタ州セントポールでラッセル・ミーンズ、デニス・バンクスの二人を連邦訴追した。この裁判では違法盗聴や偽証など、FBIの不正が次々に明るみに出た。なかでもジャック・コーラーというFBI捜査官は違法盗聴を認め、AIMによって「市民による逮捕」の対象となり、裁判所から逃げ出して、セントポールの街中をAIMに追いかけ回された。
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