遼東を巡る戦いと晩年
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サルフの戦いの後の1619年6月、楊鎬に代わって遼東経略に就いたのは熊廷弼であった。その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡により、遼東における後金の有利は決定的であり、兵士の士気も低かったため、鉄嶺は既に落ちており、モンゴルもヌルハチを恐れて明に就こうとしなかった。治安も悪く、農民も離村して社会混乱を起こした。そこで熊廷弼はあえて守勢に回り、軍備を整え、軍律を厳守して18万人の兵で守りを固め、朝鮮と連携するなどヌルハチを牽制した。この方針により農民は耕作を再開したが、中央政府の目からは消極策に映り、熊廷弼は更迭された。 この時期はヌルハチの側も、戦後処理での戦功の配分や朝鮮との通商停止、モンゴルの中立化など様々な国内問題を抱えており、1620年まで積極的な戦争を仕掛けられなかった。 熊廷弼の後任には袁応泰が就いた。袁応泰は消極的と批判された熊廷弼を反面教師として、撫順と清河を奪い返す計画を立てたが、それに先んじてヌルハチは瀋陽を強襲した。1620年2月にジャイフィヤンからサルフへ遷都していたヌルハチは、瀋陽城をあっという間に陥落させた。ヌルハチは挑発を繰り返して城の守将の賀世賢を誘い出し、深追いしたところを包囲して戦死させた。大砲と銃で守られていた城をこれだけ素早く攻略できたのは、賀世賢に不満を持っていたモンゴル人が後金に内応して中から城を開いてしまったからだと言われる。 この時、袁応泰は陳策に瀋陽へ援軍に行くよう命じたが、陳策が駆けつけた時には既に城は落ちていた。陳策は引き返そうとしたが部下に止められ、勝ち目がないとわかりつつ進軍した。迎えたヌルハチは追撃して明軍をほとんど戦死させた。3月8日、袁応泰は兵を遼陽城に集めて防備を固めた。城が堅いと認識したヌルハチは、山海関に兵を進めるよう見せかけた。袁応泰はヌルハチの計略を見抜けず、5万の兵を出して野戦で交戦してしまい敗北した。 その後、後金軍は遼陽城を攻めたが、攻城は困難だった。そこで、東の入水口を土濠で塞ぎ、排水口を開こうとした。すると明兵が出てきて両軍が激突した。橋を奪取した後金軍は、梯子をかけて城に侵入した。もはやここまでと袁応泰は自害した。城を得たその日のうちに、ヌルハチは遼陽に居を構えた。明、朝鮮、モンゴルに近く、建築資材を川に流せば資源に欠かさず、山に獣、川に魚が多く食料も欠くことがないとしたためであった。1625年に正式に遷都を決定し、重臣たちの反対を押さえてこれを決行した。瀋陽と遼陽の2大重要拠点を獲得したヌルハチであったが、この2つの戦いは後金にとっても大きなダメージを残した。一方で、瀋陽と遼陽を失った明政府には大きな動揺が起こり、以前は遼東を無難に治めていた熊廷弼の再任が強く推されるようになった。 1621年5月、朝廷に召還された熊廷弼は「三方布置策」という遼陽奪還策を提言した。三方布置策とは 広寧には騎馬・歩兵部隊を置いて守りを固める。 天津と山東半島の登州・萊州に水軍を設け、隙をついて遼東半島を攻撃する。 遼東経路は山海関を本営として全般の指揮を執る。 そうすれば後金は故郷の本拠地が気になり兵力が分散され、その間隙を縫って遼陽を回復するという作戦である。また朝鮮と連携を取ることを進言した。時の皇帝天啓帝はこれを採用し、熊廷弼を経略に起用する。しかし、熊廷弼は遼東巡撫王化貞と意見が衝突することが多く、また王化貞が兵を自由に動かせる権限を持っていたため統一した戦いができなかった。加えて王化貞は軍事知識に乏しく、大言壮語して後金を侮っていた。その上、明が指針としていた熊廷弼の三方布置策も、王化貞配下の毛文龍が後金から鎮江を奪還してしまったことで崩れた(鎮江の戦い)。 1622年1月、ヌルハチは2人の指揮官が争っていた時に、重要拠点の一つである広寧を5万の大軍で攻めた。広寧城は堅いのでまず西平堡を攻め、明軍を誘い出して野戦に持ち込んだ。王化貞に派遣された劉渠は戦死、孫得功は剃髪してヌルハチに降伏した。またこの戦いに勢いづき、遼河以西40の城を落とした。さらに、遼西で略奪をして遼東の食料不足を解消した。大勝利であったが、この戦いで孫のエセンデリを失った。王化貞は速やかに逃げて熊廷弼と合流し、山海関に退却した。後にこの責任を問われ、1632年に死刑に処されている。また熊廷弼は同じく責任を問われ、王化貞に先んじて1625年に死刑になった。この頃、ヌルハチは毛文龍のゲリラ攻撃にも苦しめられ、一方で後金領内の漢人との文化的な軋轢もあり、国内問題に対応した。 天命11年(1626年)、連戦連勝のヌルハチは、明の領内に攻め入るために山海関を陥落させようとした。ところがその手前の寧遠城(現在の興城市)に、将軍袁崇煥がポルトガル製大砲の紅夷大砲(中国語版、英語版)を大量に並べて後金軍を迎え撃った(寧遠の戦い)。 袁崇煥の名声を聞いたヌルハチは、降伏勧告をして高位につかせると約束したが、袁崇煥ははねつけた。明軍はわずか1万人ながら、遼人をもって遼を守る防衛策で農民を登用・総動員し、袁崇煥は援軍が来ると言い続けて士気を鼓舞した。明軍の徹底抗戦に後金軍は散々に討ち減らされ、退却した。この戦いはヌルハチ最初にして最後の挫折と言えた。しかしこのまま引き下がると権威が失墜すると恐れ、ヌルハチは覚華島を攻撃し、食料と軍船2千を焼いた。この戦いの中で、ヌルハチは背中に傷を負い、8月11日に崩御した。宝算68であった。遺体は瀋陽の東の郊外の福陵に葬られた。 ヌルハチは生前に後継者を定めなかったため、崩御後に紛糾したが、皇八子のホンタイジが後を継ぐことになった。
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