遼東を巡る戦いと晩年とは? わかりやすく解説

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遼東を巡る戦いと晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:48 UTC 版)

ヌルハチ」の記事における「遼東を巡る戦いと晩年」の解説

サルフの戦いの後の1619年6月楊鎬に代わって遼東経略就いたのは熊廷弼であったその頃にはサルフでの勝利イェへの滅亡により、遼東における後金の有利は決定的であり、兵士士気低かったため、鉄嶺は既に落ちており、モンゴルヌルハチ恐れて明に就こうとしなかった。治安悪く農民離村して社会混乱起こした。そこで熊廷弼はあえて守勢回り軍備整え軍律厳守して18万人の兵で守り固め朝鮮連携するなどヌルハチ牽制した。この方針により農民耕作再開したが、中央政府の目からは消極策に映り、熊廷弼は更迭された。 この時期ヌルハチの側も、戦後処理での戦功配分朝鮮との通商停止モンゴル中立化など様々な国内問題抱えており、1620年まで積極的な戦争仕掛けられなかった。 熊廷弼の後任には袁応泰が就いた。袁応泰は消極的と批判された熊廷弼を反面教師として、撫順清河奪い返す計画立てたが、それに先んじてヌルハチ瀋陽強襲した。1620年2月にジャイフィヤンからサルフへ遷都していたヌルハチは、瀋陽城をあっという間に陥落させた。ヌルハチ挑発繰り返して城の守将の賀世賢を誘い出し深追いしところを包囲して戦死させた。大砲と銃で守られていた城をこれだけ素早く攻略できたのは、賀世賢に不満を持っていたモンゴル人後金内応して中から城を開いてしまったからだと言われる。 この時、袁応泰は陳策に瀋陽援軍に行くよう命じたが、陳策が駆けつけ時には既に城は落ちていた。陳策は引き返そうとしたが部下止められ勝ち目がないとわかりつつ進軍した迎えたヌルハチ追撃して明軍をほとんど戦死させた。3月8日、袁応泰は兵を遼陽城に集めて防備固めた。城が堅い認識したヌルハチは、山海関に兵を進めるよう見せかけた。袁応泰はヌルハチ計略見抜けず、5万の兵を出して野戦交戦してしまい敗北したその後後金軍は遼陽城を攻めたが、攻城困難だった。そこで、東の入水口を土濠で塞ぎ排水口開こうとした。すると明兵が出てきて両軍激突した奪取した後金軍は、梯子をかけて城に侵入した。もはやここまでと袁応泰は自害した。城を得たその日のうちに、ヌルハチ遼陽に居を構えた。明、朝鮮モンゴル近く建築資材を川に流せ資源欠かさず、山に、川に多く食料も欠くことがないしたためであった1625年正式に遷都決定し重臣たちの反対押さえてこれを決行した瀋陽遼陽の2大重拠点獲得したヌルハチであったが、この2つ戦い後金にとっても大きなダメージ残した一方で瀋陽遼陽失った明政府には大きな動揺起こり以前遼東無難に治めていた熊廷弼の再任強く推されようになった1621年5月朝廷召還された熊廷弼は「三方布置策」という遼陽奪還策を提言した三方布置策とは 広寧には騎馬・歩兵部隊置いて守り固める。 天津山東半島登州萊州水軍設け、隙をついて遼東半島攻撃する遼東経路山海関本営として全般指揮執るそうすれば後金故郷本拠地が気になり兵力分散されその間隙を縫って遼陽回復するという作戦である。また朝鮮連携を取ることを進言した。時の皇帝天啓帝はこれを採用し、熊廷弼を経略起用する。しかし、熊廷弼は遼東巡撫王化貞と意見衝突することが多く、また王化貞が兵を自由に動かせる権限持っていたため統一した戦いができなかった。加えて王化貞は軍事知識乏しく大言壮語して後金侮っていた。その上、明が指針としていた熊廷弼の三方布置策も、王化配下毛文龍後金から鎮江奪還してしまったことで崩れた鎮江戦い)。 1622年1月ヌルハチ2人指揮官争っていた時に、重要拠点一つである広寧5万大軍攻めた広寧城は堅いのでまず西平堡を攻め明軍誘い出し野戦持ち込んだ王化貞に派遣された劉渠は戦死、孫得功は剃髪してヌルハチ降伏した。またこの戦い勢いづき、遼河以西40の城を落とした。さらに、遼西略奪をして遼東食料不足解消した大勝利であったが、この戦いで孫のエセンデリを失った王化貞は速やかに逃げて熊廷弼と合流し山海関退却した。後にこの責任問われ1632年死刑処されている。また熊廷弼は同じく責任問われ王化貞に先んじて1625年死刑になったこの頃ヌルハチ毛文龍ゲリラ攻撃にも苦しめられ一方で後金領内漢人との文化的な軋轢もあり、国内問題対応した天命11年1626年)、連戦連勝ヌルハチは、明の領内攻め入るために山海関陥落させようとした。ところがその手前の寧遠城(現在の興城市)に、将軍袁崇煥ポルトガル大砲の紅夷大砲中国語版英語版)を大量に並べて後金軍を迎え撃った寧遠の戦い)。 袁崇煥名声聞いたヌルハチは、降伏勧告をして高位につかせる約束したが、袁崇煥はねつけた明軍はわずか1万人ながら、遼人をもって遼を守る防衛策で農民登用総動員し袁崇煥援軍が来ると言い続けて士気鼓舞した明軍徹底抗戦後金軍は散々に討ち減らされ退却した。この戦いヌルハチ最初にして最後挫折と言えた。しかしこのまま引き下がる権威失墜する恐れヌルハチ覚華島攻撃し食料軍船2千を焼いた。この戦いの中で、ヌルハチ背中に傷を負い8月11日崩御した。宝算68であった遺体瀋陽の東の郊外福陵葬られた。 ヌルハチ生前後継者定めなかったため、崩御後紛糾したが、皇八子のホンタイジ後を継ぐことになった

※この「遼東を巡る戦いと晩年」の解説は、「ヌルハチ」の解説の一部です。
「遼東を巡る戦いと晩年」を含む「ヌルハチ」の記事については、「ヌルハチ」の概要を参照ください。

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