遼東公に冊封
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同年、宋該は建議して、三国連合撃退の戦果を江東(東晋朝廷)へ報告するよう提案すると、慕容廆はこれに同意して宋該を正使、裴嶷を副使とし、宇文部から奪った玉璽を携えて江東へ派遣した。 320年3月、裴嶷らは建康に到着すると、当初、東晋朝廷は慕容廆の勢力が遠方にあり、また彼の事を東夷の末裔に過ぎないと考えていた事から、軽い処遇だけで済ませようと考えていた。だが、裴嶷は慕容廆の威徳を盛んに称え、彼が賢人・俊才を重用していると述べたので、これ以降考えを改めるようになった。元帝は裴嶷らの帰還に併せて使者を随行させ、慕容廆を監平州諸軍事・安北将軍・平州刺史に任じ、1千戸を加増させた。 321年12月、東晋より使者が到来し、持節・都督幽平二州東夷諸軍事・車騎将軍・平州牧に任じられ、遼東郡公に冊封された。食邑は1万戸とされ、侍中・単于の位についてはこれまで通りとされた。また、東晋より謁者が派遣され、丹書鉄券の印綬を下賜され、遼東地方におけるの承制(皇帝に代わって諸侯や守相を任命する権限)の権限を与えられ、官司を備えて平州守宰を置くよう命じられた。こうして正式に官僚を置くことを許された慕容廆は、裴嶷・游邃を長史に、裴開を司馬に、韓寿を別駕に、陽耽を軍諮祭酒に、崔燾を立簿に、黄泓と鄭林を参軍事に任じた。朱左車・孔纂・胡毋翼は徳に優れて清廉な老臣であった事から、賓客とした。また、嫡男の慕容皝を世子に立て東楼(世継ぎの住む建物)を作り、慕容翰には遼東を、慕容仁には平郭を統治させた。慕容翰・慕容仁はいずれも任地を良く慰撫し、大いに治績を上げた。 平原出身の劉賛は儒学に精通していたので、慕容廆は彼を東庠祭酒(東庠とは東の学校、祭酒とは学政の長官を意味する)に抜擢し、世子の慕容皝のみならず、重臣の子弟にも束脩して講義を受けさせた。自身も政務の暇を見つけては講義に臨んだ。これによって、道端でも頌声(慕容廆の功徳を称える声)が起こるようになり、礼譲(礼儀正しい謙遜した態度や振る舞い)が盛んに行われるようになった。
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遼東公に冊封
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335年1月、慕容皝は左右司馬の役職を新たに設置し、司馬韓矯を左司馬に、軍師祭酒封奕を右司馬に任じた。7月、慕容皝は慕容儁を世子に立てた。 これより以前の334年8月、東晋の成帝は慕容部からの使者王済を棘城へ帰還させた(317年に司馬睿が晋王を名乗った際、皇帝への即位を勧める使者として慕容廆が東晋へ派遣していた)。また、侍御史王斉に詔書を与えて棘城へ派遣し、慕容廆の死を追悼させた。さらに謁者徐孟・閭丘幸らを併せて派遣して、慕容皝に父の慕容廆と同一の封爵・権限である鎮軍大将軍・平州刺史・大単于・遼東公・持節・都督・承制封拝(百官の任用と爵位の授与の権限)を与える旨を伝えさせた。しかし、これらの使者は馬石津を船で下っている所を慕容仁の兵により捕縛されてしまった。慕容仁は慕容皝の地位が正式に承認される事で周囲が離反する事を恐れたので、使者は1年に渡って抑留されてしまう事となった。 335年10月、慕容仁は王斉・徐孟ら東晋の使者を開放して建康へ帰るよう命じたが、彼らは元々の使命である慕容皝への詔命を告げるという目的を果たす為、慕容仁の下から離れると海路より棘城へ向かった。だが、風に阻まれてしまい、なかなかたどり着けなかった。12月、王斉・徐孟らがようやく棘城まで到達した。ここにおいて慕容皝は始めて東晋朝廷からの命を授かり、その地位を正式なものとして追認された。 同年、慕容皝は右司馬封奕に命じ、宇文別部(宇文部の傍系)である渉夜干の領土を強襲し、多くの資産を鹵獲してから帰還した。帰還の途上、渉夜干は騎兵を率いて封奕軍を追撃し、渾水において両軍は再び交戦したが、封奕が返り討ちにした。
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