戦功を重ねる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
297年、慕容廆と段夫人(段部単于の娘)との間に生まれた。 317年、東晋朝廷より冠軍将軍に任じられた。322年、さらに左賢王を拝命し、望平侯に封じられた。これ以後、兵を率いて征討に出るようになり、幾度も武勲を挙げた。 319年12月、宇文部の大人宇文遜昵延が数10万を率いて本拠地の棘城に襲来すると、慕容皝は長史裴嶷と共に精鋭を率いて迎撃軍の先鋒となり、慕容廆が大軍を率いて後続となった。宇文遜昵延は全軍を出撃させてこれを迎え撃ったが、城外で別動隊を率いていた庶兄の慕容翰はこの隙を突いて宇文遜昵延の陣営へ突入した。挟み撃ちを食らった宇文部軍は大混乱に陥って大敗し、宇文遜昵延は体一つで逃げ出し、慕容廆は敵の兵卒のほとんどを捕虜とした。 321年12月、慕容廆が東晋朝廷より遼東公に冊封されると、慕容皝は世子(諸侯の後継ぎ)に立てられた。慕容廆は平原出身の劉賛が儒学に精通していた事から東庠祭酒(東庠とは東の学校、祭酒とは学政の長官を意味する)に抜擢し、慕容皝は重臣の子弟と共に彼から講義を受けるようになった。 322年12月、慕容廆の命により段部の本拠地である令支へ侵攻し、千家余りの民と名馬や宝物を略奪してから帰還した。 325年1月、宇文部の大人宇文乞得亀が慕容部へ襲来した。慕容廆の命により、慕容皝は軍の総大将を任せられ、裴嶷が軍の右翼となり、同母弟の慕容仁が軍の左翼となった。宇文乞得亀は澆水に陣を構えて慕容皝軍を阻むと共に、兄の宇文悉跋堆に命じて慕容仁を攻撃させた。慕容仁がこれを返り討ちにして宇文悉跋堆を討ち取ると、慕容皝はこれに呼応して宇文乞得亀の本隊に攻撃を仕掛け、大勝を挙げた。これにより宇文部軍は崩壊して宇文乞得亀は軍を捨てて逃亡を図ったので、慕容皝は慕容仁と共に進軍を続けてそのまま宇文部の都城へ侵入した。同時に軽騎兵を派遣して宇文乞得亀を追撃させ、3百里余りを追い立てた所で引き返した。この戦勝により宇文部の持っていた重宝を尽く獲得し、鹵獲した畜産は百万を数えた。また、慕容部に帰順した人民は数万にも上った。 326年、東晋朝廷により平北将軍に任じられ、朝鮮公に進封した。
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