棘城に襲来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:48 UTC 版)
5月、石虎は慕容皝が軍を合流させる約束を反故にし、単独で段部へ侵攻してその利益を独占した事に憤り、今度は前燕へ侵攻を開始した。慕容皝はこれを知ると、兵や物資を整備すると共に、六卿・納言・常伯・冗騎常侍などの権限を一時的に停止し、戒厳令を布いた。石虎が数10万といわれる大軍をもって棘城に逼迫すると、前燕の民は震え上がった。また、石虎は各地に使者を派遣して寝返りを持ち掛けると、前燕の成周内史崔燾・居就県令游泓・武原県令常覇・東夷校尉封抽・護軍宋晃らはみなこれに呼応し、凡そ36城が後趙に寝返った。また、冀陽郡にいた流民は太守宋燭を殺害して石虎に降った。営丘内史鮮于屈もまた使者を派遣して石虎に降ったが、武寧県令孫興は官吏と民衆を説得して共に鮮于屈を捕らえ、これを処刑して籠城した。朝鮮県令孫泳もまた衆を率いて後趙を拒み、豪族の王清らは密謀して後趙に内から呼応しようとしたが、孫泳は先んじてこれを処断した。王清と密謀していた者は数百人おり、彼らは恐れて孫泳に謝罪し、孫泳は彼ら全員の罪を免じて籠城を継続した。楽浪では領民がみな後趙に寝返ったので、太守鞠彭は郷里の壮士200人余りを連れて棘城へ撤退した。 同月、後趙の大軍が棘城に到達すると、慕容皝は内史高詡へ「これをいかにして防ぐべきか」と尋ねると、高詡は「趙兵は強いといえども憂うには及びません。ただ堅守して拒むだけで、何も出来ますまい」と述べた。だが、慕容皝はなおも不安を拭う事が出来ず、城を放棄して後退しようと考えたが、側近の慕輿根が「趙は強大であり我々は弱小です。もし大王(慕容皝)が逃げれば趙は調子づき、その勢いで我が国へ攻め込めば、兵はさらに強くなり食糧も確保出来、もはや打つ手は無くなります。敵も大王の逃亡を望んでいるというのに、わざわざその手に乗ってどうするというのですか!今は守りを固めて籠城すれば、我が軍の志気は百倍します。敵の攻撃を持ちこたえれば、付け入る隙も見つかるでしょう。戦う前に逃げ出してしまえば、万に一つも望みはありませんぞ!」と諫めたので、思いとどまった。それでも慕容皝の不安は完全に払拭出来てはいなかったが、玄菟郡太守劉佩は進み出て「今、強寇が外にあり、衆人の心は恐れおののいております。事の安危は一人にかかっており、大王は逃れるなどと考えずに、将士を鼓舞して自らの強を表すべきであって、弱を示すべきではありません。今、事は急を要します。臣がこれから出撃して、敵に大勝してみせます。そうすれば、安心するに足りるでしょう」と応えた。そして、劉佩は数百騎の決死隊を率いて後趙の軍営に突撃すると、大打撃を与えて向かう所全てで兵を斬獲してから帰還した。これにより後趙軍の士気は挫かれ、城内の士気は百倍した。さらに慕容皝は封奕へも対応策を問うと、封奕は「石虎の凶暴残虐は甚だしく、民・神共に苦しんでおります。禍敗は必至であり、それが今日なのです!今、奴らは国を空にして遠くから来寇しておりますから、攻守の勢いは異なっております。たとえその兵馬が精強といえども、煩いを為すには足りますまい。兵を留めたまま月日を重ねれば、必ずや隙を生むことでしょう。ただ堅守してその時を待つのみです」と説いた。これにより、遂に慕容皝の心は落ち着きを取り戻した。 後趙軍の攻勢が始まると、ある側近は慕容皝に降伏を勧めたが、慕容皝は「我は天下を取るというのに、どうして人に降るというのか!」と叱責して従わなかった。後趙軍は10日余りに渡って攻勢を続け、四方から蟻のように群がったが、慕輿根や鞠彭らは昼夜に渡って力戦して決死の防戦を続けたので、後趙軍は最後まで攻略することが出来ず、遂に退却を始めた。これを見た慕容皝は子の盪寇将軍慕容恪らに騎兵2千を与えて夜明けと共に出撃させると、後趙の諸軍はこれに大いに驚き、みな甲を脱ぎ捨て遁走してしまった。慕容恪はこれに乗じて追撃を掛け、後趙軍を大敗させて3万を超える兵を斬獲した。 後趙軍が全面撤退すると、慕容皝は兵を分けて後趙に寝返った諸々の城砦へ進撃させ、これらを全て降すと共に、その国境を凡城(現在の河北省承徳市平泉市の南)まで押し広げた。崔燾・常覇は後趙領の鄴へ逃走し、封抽・宋晃・游泓は高句麗へ亡命した。慕容皝は今回の功績により、鞠彭・孫泳・慕輿根らに褒賞を与えた。今回の一件で多数の反乱者が捕らえられたが、功曹長史劉翔は法に則して適切に彼らの罪を判断し、多数の者の命を救った。その後、慕容皝は凡城に新たな城を築いて守備兵を配置してから帰還した。
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