遼帝国の副都、南京
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:25 UTC 版)
安史の乱の後、細々としながらも存続していた唐帝国であったが、末期には事実上各地の節度使、有力な豪族、大名らが半独立国となって割拠していた。 そんな中、907年に朱全忠によって皇帝・哀帝が暗殺され、後梁を建国すると、もはや唐王朝は滅亡したため、と各地の節度使出身者が独立し、相争う五代十国時代となった。華北に建国された王朝のうち、石敬瑭の後晋は、南にある後唐を滅ぼすための援軍を、北方の契丹(遼)に頼んだ。その時、援軍との交換として北京を含む燕雲十六州を遼に割譲した。その結果、後晋は後唐の末帝を自殺させ、滅亡させることができたが、中国王朝にとって守りの要であった万里の長城の一部を、北方の王朝に奪われる結果となった。また、北京の奪還を目指して後晋やその他の五代王朝、または各王朝は両相手に善戦したが、遂に奪取できなかった。 この時、遼は都の中京に対して北京を副都とし、名を「南京」、または「燕京」と改名した。この地を獲得した遼は、中華地方への足掛かりとなすため、町を唐の時代の約4倍に拡張・整備し、北方帝国の副都たる姿に改めた。その規模は、法源寺から会城門まで程の規模であったという。このころ、天寧寺の塔などが創建された。
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