タングート(旧西夏領陝西)方面
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「タンマチ」の記事における「タングート(旧西夏領陝西)方面」の解説
現在では中国内部の省の一つとして知られている陝西省であるが、モンゴル帝国が興った頃は西夏国による統治が200年間も続いており、宋・金によって統治されてきた河北一帯(モンゴルは「ヒタイ」と呼称する)とは別個の地域と認識されていた。そのため、モンゴルによる東アジア侵攻においてタングート方面(甘粛・陝西)は常にヒタイ方面とは別個の軍団を組織し、さらに陝西方面軍が制圧したチベット東部・四川・雲南方面もまたヒタイ方面とは異なる軍団の系譜を持つようになった。 陝西方面軍の大きな特徴の一つとして、モンゴル帝国全体で右翼=西方は西道諸王(チンギス・カンの諸子を始祖とする諸王家)の勢力圏とされていたがためにオゴデイ家・チャガタイ家などの影響力が非常に強かったことが挙げられる。タンマチ派遣の始まった1228年に刪丹へと派遣されたアンチュルはチャガタイ家に仕える武将であって、カアンに直属するケシク出身の指揮官がほとんどのタンマチの中では特異な存在ではあるが、タンマチを率いていたことが史料上に明記されている。また、翌1229年にはかつてムカリの下で活動していた耶律禿花が配下の軍団を率いて陝西に移住し、鳳翔を本拠地に定めた。以後、アンチュルの軍団と耶律禿花の率いてきた軍団が中心となってタングート(陝西)方面タンマチが形成されていった。 1231年より第2次金朝侵攻が始まると、アンチュルらもこれに従軍して金朝軍と戦い、1234年には陝西に帰還した。また、1236年にはクチュの南宋侵攻において右翼軍として四川地方に侵攻し、アンチュルは成都を一時陥落させる功績を挙げた。この頃、アンチュルの献策によってタンマチ兵からなる対南宋布陣が決定されたとされるが、前述したように同時期に河北方面でも組織的なタンマチ兵の配備が行われており、モンゴル帝国全体での政策の一環と考えられている。 しかし、オゴデイが亡くなると次代のカアン位をめぐる政争が烈しくなり、この方面におけるタンマチの活動は全く史料上に見られなくなる。1250年、数年ぶりに史料上にあらわれたアンチュルは「旧鎮(=刪丹)」に戻るよう命じられ、この後10年近くほとんど前線に出なくなる。先述したように1251年に即位した第4代皇帝モンケは自身と敵対していたオゴデイ家・チャガタイ家に粛清を加えており、その一環としてチャガタイ家の有力武将たるアンチュルも事実上の更迭を受けたのだと考えられている。代わって陝西方面タンマチの指揮官に抜擢されたのがサルジウト部出身のタイダルで、以後陝西方面ではアンチュル家とその上に立つタイダル家によるタンマチ支配が固定化する。1260年のモンケの急死によって帝位継承戦争が始まると、アンチュルはいち早くクビライ派について取り立てられ、汪良臣らとともにアリク・ブケ派の巨魁アラムダールを討ち取る功績を挙げた。一方、タイダル率いる陝西方面タンマチはモンケ直属であったがためにどちらの派閥につくか遼巡していたが、最終的には廉希憲の説得によってクビライ派に協力した。帝位継承戦争後、クビライ政権の基盤が固まると、陝西・四川方面ではアンチュル家とタイダル家という2大勢力率いるタンマチが各地に駐屯するという体制ができあがった。両家は丁度四川の中心地成都を境として北方の鳳翔を中心とする地区にアンチュル家が、南方の西川地区にイェスデル家が、それぞれ駐屯した。 1273年にクビライの第2子マンガラが陝西地方に封ぜられ安西王国を形成すると、陝西方面タンマチもその指揮下に入った。1277年にマンガラがシリギの乱鎮圧に出生した際、その隙を狙って南平王トゥクルクが反乱を起こした時にはアンチュル家のテムル(趙国安)が在地の兵力を結集して反乱を鎮圧する功績を挙げている。しかし、マンガラが1278年に亡くなり息子のアナンダが跡を継ぐと、朝廷の実力者でチベット仏教僧のサンガはイスラーム教に改修したアナンダを警戒してその勢力をそぎ落とす政策をとり、1287年にはアンチュル家の指揮下にある陝西方面タンマチ=「礼店(李店)元帥府」を安西王国の王相府から陝西行省、ついで土番宣慰司に転属させた。サンガの失脚後も礼店元帥府の帰属は二転三転したが、最終的にはいずれの宣慰司にも属さない独自の地位に落ち着くこととなった。このように礼店元帥府が大元ウルスの諸機関の中でも特異な扱いを受けていたのは、アンチュル家の軍隊が本来チャガタイ家の千人隊として発足したことに由来すると考えられている。 その後も陝西方面タンマチは中国西南諸民族との戦いにしばしば動員されており、1284年にはアンチュルの孫ボロト・カダが1千のタンマチを率いて金歯に遠征したことが記録されている。1351年に勃発した紅巾の乱は主たる活動範囲は河南江北一帯であったが、 初期にはその一部が金州(現在の陝西省安康市一帯)に侵攻してきた。これに対し、翌1352年にはオルク・テムルが陝西一帯の軍勢を率いてこれを撃退し、さらに翌年にはその成功を祝して碑文を立てた(「牛山土主思恵王忠献碑」)。碑文では反乱鎮圧に参加した多数の将官の名前が記録されているが、その中で最も多いのが陝西タンマチに由来する「陝西等処蒙古軍都万戸府」所属の将官で、14世紀中葉の元末に至っても陝西タンマチがこの方面の主力軍団であったことが確認される。 しかし、1362年に明玉珍が四川地方に大夏国を建国すると陝西方面タンマチの大部分は大夏に降ったようで、アンチュル一族の人間とおぼしき「趙元帥」や「礼店元帥府同知の王均諒」らの将軍が大夏国の将軍の一人として明朝と戦ったことが記録されている。1371年には明朝の将軍潁川侯傅友徳が北方の陝西方面から大夏国に侵攻し、前述した陝西タンマチの末裔らが明軍と戦ったが、最終的に大夏国は明朝に併合された。大夏国の滅亡によって明朝の支配下に入った「礼店元帥府」は「礼店千戸所」とされ、陝西方面タンマチも明朝の支配下に入って陝西タンマチの伝統は途絶えた。ただし、19世紀の清代に至ってもアンチュルの16世孫を称する趙桂林なる者の記録が残っており、礼県では明〜清代を通じてアンチュル家は一定の信望を保ち続けていた。
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タングート方面
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タングート方面では、耶律禿花が率いていた軍団に由来する「陝西等処蒙古軍都万戸府」と、アンチュル家が率いた軍団に由来する「礼店元帥府」がタンマチを率いる軍団として知られている。「陝西等処蒙古軍都万戸府」については、モンケの治世以後タイダル家によって代々治められている。一方、「礼店元帥府」は元来チャガタイ家に属する軍団であったこともあり、他の「万戸府」とは異なる独自の位置づけの軍隊として扱われていた。
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