南末遠征軍の指揮官として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/16 03:21 UTC 版)
このような流れの中で、バアトルの甥センウもクビライに抜擢され、1274年(至元11年)には父スグンチャクがかつて率いていた「五投下」の軍団とともに南宋平定に加わるよう命じられた。センウ率いる五投下軍団はアタカイ・劉整らの率いる淮西軍団と行動をともにし、長江沿いに東進し安豊・廬州などを攻略した。潤州で一度再集結した南宋遠征軍は南宋の首都臨安攻略のため全軍をモンゴル軍伝統の左翼・右翼・中央3軍体制に再編成し、センウは董文炳とともに左翼軍を率いることになった。3軍に分かれて進軍を始めたモンゴル軍に対して、江陰・華亭・澉浦・上海といった諸城は戦わずして投降し、首都臨安もほとんど戦闘が行われることなくモンゴル軍によって占領された。臨安の攻略後、センウは揚州を包囲していたアジュ軍の授護に向かって姜才率いる2万の兵を撃退する功績を挙げ、揚州の陥落後は他の諸将とともにクビライの下に凱旋した。 しかし、南宋平定が成功裏に終わろうとしていたその最中、北方モンゴリアでは「シリギの乱」という大事件が勃発し、センウも含む南宋遠征軍の主だった諸将は反乱鎮圧のため北方・西方に派遣されることになった。センウはこの時「征西都元帥」に任じられ、総帥汪惟正率いるオングト軍とともに「シリギの乱」に呼応して東進するカイドゥ軍との戦いに派遣されたが、この間の動向についてはあまり記録が残っていない。
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