汪惟正とは? わかりやすく解説

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汪惟正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/29 07:55 UTC 版)

汪 惟正(おう いせい、1242年 - 1285年)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えたオングト人。字は公理。鞏州塩川鎮の出身。

概要

汪惟正は金朝からモンゴル帝国に降って「鞏昌二十四城」の支配を認められた汪世顕の孫、帝位継承戦争・南宋領四川での戦闘で多くの功績を残した汪良臣の息子として生まれた[1]

汪惟正は幼いころから聡明なことで知られ、文士たちと古今の治乱について語り合い、また猟に出ては戦での攻守について学んだという。父の汪徳臣が軍中で死去すると、仮に父の爵位を継承し、青居山を守ることとなった。1250年代末、モンケ・カアンが南宋への親征を決めると、腹心の部下であるキタイ・ブカに2万の騎兵とともに六盤山を守らせ、また皇姪のモゲを青居山に派遣した。ところが1259年己未)にモンケ・カアンが急死すると、帝位を巡って弟のクビライアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発し、旧モンケ軍を指揮するクンドゥカイがアリクブケ側につき、またキタイ・ブカもこれに呼応しようとした。しかし、これを察知した汪惟正はキタイ・ブカを捕縛・処刑してクビライ派につくことを表明し、このころ陝西・四川方面を偵察した趙良弼も汪惟正がクビライ派であることを報告している[2]。この功績により、1260年中統元年)にクビライが皇帝位に即位すると、改めて正式に父の地位を認められた[3]

1261年(中統2年)に入朝すると、甲冑・宝鞍を下賜された。1262年(中統3年)、命を受けて鞏昌に戻り、このころ起こったクドゥの反乱鎮圧に従事した。汪惟正は戦闘を避けてクドゥ軍が消耗するのを待つ方策を取り、2カ月経って反乱軍の食料が尽きたことを知ると、始めて攻勢に転じて勝利を収めた。クドゥが30名の部下を派遣して降伏を申し出てくると、その内10名を帰してクドゥ自らが出頭するよう要求し、最後にはクドゥを謀殺することで反乱を平定するに至った[4]

1270年至元7年)、南宋は武勝軍を立ててモンゴル軍に攻撃を仕掛けようと図ったが、これに対して汪惟正は嘉陵江に柵を作り、水上の通行を制限することで南宋軍を寄せ付けなかった。1272年(至元9年)には兵を率いて忠州涪州に出兵し、城塞7を破り、守将6人捕らえて1,600戸を降らせる功績を挙げた。その後、南宋侵攻の最大の障害となっていた襄陽城が陥落すると、「四川でいまだ降らないのは数城のみです。今こそ力をあわせて南宋の根拠地(長江下流域)に攻め込むべきであり、願わくば四川の兵を率いて長江を下りバヤンの軍団と合流することを請います」とクビライに上奏した。これに対し、クビライは「四川の征服もまた重大事であり、卿をおいて他の誰に託すことができようか。四川を平定することができれば、その功績はバヤンのそれに劣るものではない」と述べ、両川枢密院の重慶包囲を救援するよう命じた。そこで汪惟正は洪崖門を奪取し、南宋の将の何統制を捕虜とする功績を挙げた。1273年(至元10年)、マンガラが安西王に封ぜられ、陝西・四川方面を統べるようになると、汪惟正は四川の最前線から召還されて本拠に帰還した[5][6]

1277年(至元14年)冬には安西王マンガラがカイドゥとの戦いのため出征した隙をついて、トゥクルクが六盤山で反乱を起こした[7]。安西王相府はベステイ(別速帯)を討伐軍の司令官、汪惟正をその副官として派遣したが、ベステイは実戦経験がなかったため実質的に汪惟正が軍団の指揮を執ったという。汪惟正は平涼まで至ると鞏昌の精鋭兵80名をひきつれ、六盤山にまで進軍した。トゥクルクは西山を拠点としていたのに対し、汪惟正は安西王国軍を左右翼に分けて攻撃を仕掛けた。汪惟正はトゥクルク軍から1里あまりの距離で配下の兵に下馬して弓を構えるよう命じ、トゥクルク軍の騎兵が接近すると、「必中と見てより放て」と指示した。この一斉射撃により、トゥクルク軍の騎兵は3分の1が倒れ、残りは敗走し、汪惟正はこれを追撃して蕭河まで至った。汪惟正はさらに兵を進めて叛将の燕只哥を捕虜とし、最後にはトゥクルクも捕虜とするに至った。安西王マンガラが帰還すると、汪惟正はこれえを迎え、マンガラは汪惟正の功績をたたえてその翌日に大宴会を開いた。宴会の場でマンガラは汪惟正に金尊杯・貂裘を授け、また王妃は汪惟正の母のために珠絡帽衣を下賜して「汝の母はまことに福人である」と語ったという。またクビライも汪惟正の功績を知って入朝するよう命じ、白金五千両・錦衣一襲を下賜すると同時に、金吾衛上将軍・開成路宣慰使の地位を授けた[8]

さらに、1280年(至元17年)には龍虎衛上将軍・中書左丞・行秦蜀中書省事の地位に遷った。このころ、秦蜀行省はその名の通り陝西・四川一帯を統べていたが、中心は陝西の長安にあり四川からは遠かったため、汪惟正が命を受けて分省を統治した。1283年(至元20年)には資徳大夫の地位に進み、1285年(至元22年)には陝西行中書省左丞に改められた。しかしこの年、上都に滞在中のクビライの下に入覲した後に病を発し、華州まで戻った所で44歳にして死去した[9]

息子には武略将軍・成都管軍副万戸になった汪嗣昌、資徳大夫・江南行御史台中丞になった汪寿昌らがいた[10]

鞏昌汪氏

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪世顕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪清臣
 
汪佐臣
 
汪翰臣
 
汪良臣
 
 
汪直臣
 
汪徳臣
 
 
 
 
 
汪忠臣
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪惟簡
 
汪惟勤
 
汪惟能
 
汪惟和
 
汪惟賢
 
汪惟正
 
汪惟益
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪懋昌
 
 
 
 
 
 
 
 
 
汪寿昌
 
汪嗣昌
 
汪安昌

脚注

  1. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「子六人。長惟正。次惟賢、大司徒。惟和、昭文館大学士。惟明、以質子為元帥。惟能、征西都元帥。惟純、権便宜都総帥」
  2. ^ 池内 1986, p. 278.
  3. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「惟正字公理、幼穎悟、蔵書二万巻、喜従文士論議古今治乱、尤喜談兵、時出游猟、則勒従騎為攻守状。父卒于軍、皇姪寿王俾権襲父爵、守青居山。世祖即位、遂真授焉。初、憲宗遣渾都海以騎兵二万守六盤、又遣乞台不花守青居、至是、渾都海叛、乞台不花発兵為応、惟正即命力士縛乞台不花、殺之。世祖嘉其功、詔東川軍事悉聴処分」
  4. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「中統二年、入朝、賜甲冑・宝鞍。三年、詔還鞏昌。部長火都叛、民大擾、惟正謂将吏曰『火都今若猘犬、方肆狂齧、苟一戦不利、則城邑為墟、当勝以不戦』。乃発兵踵之、賊欲戦不得、休則撓之、若是者両月、知其糧尽勢蹙、曰『可矣』。与戦、屡捷、火都遣三十人来約降、即遣其十人還、俾火都自来、因潜兵躡其後、出其不意擒殺之」
  5. ^ 牛根 2001, p. 111.
  6. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「至元七年、宋人修合州、詔立武勝軍以拒之。惟正臨嘉陵江作柵、阨其水道、夜懸燈柵間、編竹為籠、中置火炬、順地勢転走、照百歩外、以防不虞、宋人知有備、不敢近。九年、帥兵掠忠・涪、獲令・簿各一、破寨七、擒守将六、降戸千六百有奇、捕虜五百。会丞相伯顔克襄陽、議取宋、惟正奏曰『蜀未下者、数城耳、宜併力攻餘杭、本根既抜、此将焉往願以本兵、由嘉陵下夔峡、与伯顔会銭塘』。帝優詔答曰『四川事重、捨卿誰託異日蜀平、功豈伯顔下邪』。未幾、両川枢密院合兵囲重慶、命益兵助之、惟正奪其洪崖門、獲宋将何統制。皇子安西王出鎮秦蜀、召惟正還」
  7. ^ 牛根 2001, p. 112.
  8. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「十四年冬、皇子北伐、而藩王土魯叛于六盤、王相府命別速帯領兵進討、惟正為副。別速帯不習兵、師行無紀、惟正為正部曲、粛行陣、厳斥候、凡軍政一倚重焉。進次平涼、簡鞏兵鋭者八十人与倶、至六盤。土魯先拠西山、惟正分安西兵為左右翼、鞏兵独居中、去土魯一里許、皆下馬、手弓。土魯遣百騎突陣、惟正令引満毋発、将及。又命曰『視必中而発』。於是矢下如雨、突騎中者三之一、餘尽馳還、土魯軍遂走。惟正麾兵逐之、三踰山、至蕭河、擒叛将燕只哥、復進兵、土魯亦就擒。安西王至、惟正迎謁、王歴称其功。明日、大燕、賞以金尊杯・貂裘。王妃賜其母珠絡帽衣、且曰『吾皇家児婦也、為汝母製衣、汝母真福人也』。詔惟正入朝、世祖推玉食食之、賜白金五千両・錦衣一襲、授金吾衛上将軍・開成路宣慰使」
  9. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「十七年、遷龍虎衛上将軍・中書左丞、行秦蜀中書省事、賜玉帯。以省治在長安、去蜀遠、乃命惟正分省于蜀。蜀土薦罹兵革、民無完居、一聞馬嘶、輒奔竄避匿、惟正留意撫循、人便安之。二十年、進階資徳大夫。二十二年、改授陝西行中書省左丞。入覲上都、得腹疾、還至華州、卒、年四十四。諡貞粛」
  10. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「二子嗣昌、武略将軍・成都管軍副万戸。寿昌、資徳大夫・江南行御史台中丞」

参考文献

  • 池内功「アリク=ブカ戦争と汪氏一族」『中国史における乱の構図』雄山閣出版、1986年
  • 牛根靖裕「元代の鞏昌都總帥府の成立とその展開について」『立命館東洋史学』第24号、2001年
  • 牛根靖裕「モンゴル統治下の四川における駐屯軍」『立命館文学』第619号、2010年
  • 元史』巻155列伝42汪世顕伝
  • 新元史』巻142列伝39汪世顕伝



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