汪惟和
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/13 05:08 UTC 版)
汪 惟和(おう いわ、生没年不詳)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えたオングト人。鞏州塩川鎮の出身。
概要
汪惟和は金朝からモンゴル帝国に降って「鞏昌二十四城」の支配を認められた汪世顕の孫、南宋領四川への侵攻で多くの功績を残した汪徳臣の息子として生まれた[1]。
鞏昌汪氏は汪世顕・汪徳臣・汪惟正の三代に渡って陝西・四川方面に強大な影響力を有する軍閥として存続してきたが、1282年(至元19年)に汪ジャライルタイ(汪氏の誰に相当するかは不明)が総帥の地位を罷免されてより[2]、その権限が制限されるようになった[3]。一方でこのころより汪惟和も記録上に現れるようになり、1287年(至元24年)には四川から徴発した5千の軍に六盤山で屯田させるよう進言したとの記録がある[4]。
さらに中央において権臣のサンガが登場すると汪氏への締め付けは一層厳しくなり、1288年(至元25年)には汪氏の総帥が取り仕切る「鞏昌便宜都総帥府」を解体して、複数の宣慰使が共同管理する宣慰使司に移行することが決められた[5][3]。サンガはこの宣慰使司に自らの弟の答麻剌答思を宣慰使として送り込み、勢力伸長を図っている。一方で汪惟和は1289年(至元26年)2月より北方に出征するよう命じられ、同年には領内の漢人の兵器を没収したとの記録がある[6][7]。
しかし、1291年(至元28年)にサンガが失脚すると答麻剌答思は処刑されることを恐れて自殺し、これを受けて宣慰使司は廃止されて鞏昌等二十四処便宜都総帥が復活された[8]。かつて総帥であった汪惟正は1285年(至元22年)に死去しており、1292年(至元29年)に総帥に任命されたのが汪惟正の弟の汪惟和であった[9][3]。また1293年(至元30年)にはディクン派の乱を経て混乱していたチベットに3千の兵を率いて出征している[10]。
クビライの没後、その孫のオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)にも引き続き仕え、1297年(大徳元年)には配下の兵を率いて沙州・瓜州で屯田を行った[11]。最終的な官位は昭文館大学士に至ったが、没年については伝えられていない。
鞏昌汪氏
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汪世顕 |
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汪清臣 |
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汪佐臣 |
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汪翰臣 |
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汪良臣 |
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汪直臣 |
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汪徳臣 |
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汪忠臣 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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汪惟簡 |
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汪惟勤 |
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汪惟能 |
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汪惟和 |
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汪惟賢 |
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汪惟正 |
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汪惟益 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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汪懋昌 |
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汪寿昌 |
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汪嗣昌 |
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汪安昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「子六人。長惟正。次惟賢、大司徒。惟和、昭文館大学士。惟明、以質子為元帥。惟能、征西都元帥。惟純、権便宜都総帥」
- ^ 『元史』巻12世祖本紀9,「[至元十九年秋七月]丁丑、罷汪札剌児帯総帥、収其制命・虎符。以鞏昌路達魯花赤別速帖木児為鞏昌平涼等処二十四処軍前便宜都総帥府達魯花赤」
- ^ a b c 牛根 2001, p. 118.
- ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十四年冬十月]戊寅……従総帥汪惟和言、分所部戍四川軍五千人屯田六盤」
- ^ 『元史』巻15世祖本紀12,「[至元二十五年十一月]甲辰、以鞏昌便宜都総帥府統五十餘城兵民事繁、改為宣慰使司、兼便宜都総帥府」
- ^ 『元史』巻15世祖本紀12,「[至元二十六年二月]甲戌、命鞏昌便宜都総帥汪惟和将所部軍万人北征、令過闕受命」
- ^ 『元史』巻15世祖本紀12,「[至元二十六年六月]己酉、鞏昌汪惟和言『近括漢人兵器、臣管内已禁絶、自今臣凡用兵器、乞取之安西官庫』。帝曰『汝家不与它漢人比、弓矢不汝禁也、任汝執之』」
- ^ 『元史』巻16世祖本紀13,「[至元二十八年五月]鞏昌旧惟総帥府、桑哥特升為宣慰司、以其弟答麻剌答思為使、桑哥敗、懼誅自殺、至是復総帥府」
- ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元二十九年二月]丁亥、以汪惟和為鞏昌等二十四処便宜都総帥、兼鞏昌府尹、仍佩虎符」
- ^ 『元史』巻17世祖本紀14,「[至元三十年二月]辛亥、詔発総帥汪惟和所部軍三千征土番、又発陝西・四川兵万人、以行枢密官明安答児統之、征西番」
- ^ 『元史』巻19成宗本紀2,「[大徳元年十一月]丁丑……総帥汪惟和以所部軍屯田沙州・瓜州、給中統鈔二万三千二百餘錠置種・牛・田具」
参考文献
- 汪惟和のページへのリンク