汪忠臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/13 05:10 UTC 版)
汪 忠臣(おう ちゅうしん、1219年 - 1266年)は、モンゴル帝国に仕えたオングト人。字は漢輔。鞏州塩川鎮の出身。
『元史』には立伝されていないが『牧庵集』巻16便宜副総帥汪公神道碑にその事蹟が記され、『新元史』には汪公神道碑を元にした列伝が記されている。
概要
父の汪世顕は金朝に仕えて鞏昌一帯を治める人物であったが、金朝の滅亡後、1235年(乙未)10月にコデン率いるモンゴル軍に投降した[1]。この時、汪忠臣の弟の汪徳臣は質子(トルカク)としてコデンに差し出され、汪徳臣は父とともにコデンの軍団に属することとなった[2]。これ以後、汪徳臣は四川方面への侵攻に従事し、1241年(辛丑)の成都攻めでは、汪忠臣は自ら数10人を斬る活躍ぶりを見せ、成都の攻略に大きく貢献した。
1242年(壬寅)にはチベットの畳州を攻略する功績があったが、その翌年の1243年(癸卯)に汪世顕が死去した。本来は長男の汪忠臣が地位を継承すべきであったが、コデンは質子(トルカク)として身近にあった汪徳臣を気に入っており、汪忠臣は汪世顕の後継者としての地位を汪徳臣に譲ることとなった。コデンは潔く弟に地位を譲った汪忠臣を称え、鞏昌元帥・知鞏昌府事の地位を授けたという[3]。また、1246年(丙午)には四川方面での功績により金符を授けられた[4]。なお、汪忠臣と汪徳臣、汪惟正と汪良臣のように汪氏の有力者二人が「遠征への従事、前線拠点での駐屯を行う者(征行官)」と「本拠地の鞏昌で残留する軍団を統轄する者(奥魯/アウルク官)」を分担する体制は元代前半を通して踏襲されている[5]。
1252年(壬子)には新たに即位したモンケ・カアンにより権都総帥に任じられた。1253年(癸丑)からはモンケの弟のクビライが東アジア方面の司令官に任じられ、雲南・大理遠征に従った。しかし、モンケとクビライが遠征の方針を巡って対立すると、遠征計画が改められて1258年(戊午)よりモンケ自らが四川方面に親征することとなった。汪忠臣は汪徳臣・汪惟正父子とともにモンケの指揮下に入って四川に侵攻し、剣関・長寧山攻めなどに功績を挙げた[6][7]。
しかし四川の湿潤な気候は北方育ちのモンゴル兵を蝕み、汪徳臣は熱病にかかって急死してしまった。汪忠臣は泣きながらも諸将を集め、汪惟正がまだ幼かったことを理由に、諸将から推されて代わりに軍を率いるようになったという[8]。
さらに同年秋、モンケもまた病により急死してしまい、弟のクビライとアリクブケの間で帝位継承戦争が勃発した。モンケ直属軍はどちらに味方するかで去就が分かれたが、汪氏一族は早くからクビライ派につき、1260年(中統元年)に汪忠臣は副都総帥に任じられた[9]。アリクブケ派との戦闘には弟の汪良臣が派遣されたが、汪忠臣と汪惟正は南宋への備えのために青居山に派遣された[10]。汪忠臣は屯田を行って食料を調達し、練兵に務めて南宋軍を寄せ付けず、帝位継承戦争中に南部国境の安定を保った[10]。1262年(中統3年)には以上の功績をたたえて金符を授けられたが、1266年(至元3年)秋には病を発し、48歳にして死去した[11]。
汪忠臣の死後、息子の汪惟益は副都総帥の地位を継承し、さらにその息子の汪安昌は懐遠大将軍・便宜都総帥の地位にまで至っている[12]。また、鎮撫帥府の張文煥に嫁いだ娘もいた[13]。
鞏昌汪氏
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
汪世顕 |
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||
汪清臣 |
|
汪佐臣 |
|
汪翰臣 |
|
汪良臣 |
|
|
汪直臣 |
|
汪徳臣 |
|
|
|
|
|
汪忠臣 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
汪惟簡 |
|
汪惟勤 |
|
汪惟能 |
|
汪惟和 |
|
汪惟賢 |
|
汪惟正 |
|
汪惟益 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
汪寿昌 |
|
汪嗣昌 |
|
汪安昌 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ 牛根 2001, p. 99.
- ^ 牛根 2001, p. 100.
- ^ 牛根 2001, p. 127.
- ^ 『牧庵集』巻16便宜副総帥汪公神道碑,「……乙未始下。太宗義為其主、後来仍金官、官以便宜都総帥、俾従皇子奎騰征蜀。公留質帝所、忠烈質皇子所制。後令公従征蜀、以管軍総領従破文・階州・大安軍。従攻成都、入其郛。義武陥伏中急、公疾戦、殺傷数十人、竟衛翼而出。壬寅、以破土番畳州功、賜銀符。明年、義武卒、有子七人、皇子択宜世帥者、意在忠烈、謂公曰『汝宜世、吾欲帥汝弟、而得無後其心乎』。公曰『王未有言、臣欲推授為子、与兄有異耶』。王高其行、以公鞏昌元帥・知府事。丙午、以前茅忠南功換金符。故事、祖宗賓天、所授符節悉取還之、故公金符亦帰之官」
- ^ 牛根 2001, p. 114.
- ^ 池内 1986, p. 273.
- ^ 『牧庵集』巻16便宜副総帥汪公神道碑,「憲宗二年、士子償賜之、俾権都総帥。是明年癸丑、世祖以太弟総天下名、既移忠烈一軍戍和州、会将軍南詔禡牙臨洮、公来趨覲、俾督漕嘉陵、継利州。公造舟桟途、水陸兼行走、缺足兵籍而恤乏、民力始益昌、不以饑告。戊午、憲宗自将討蜀、忠烈集諸将問計楼上曰『吾州凋傷之餘、玉帛無所于得、一旦東于至、左右近貴之臣需求何以為資』。公則曰『吾曹抜身健児、惟有能将卒士衆効死前駆、何至為是媚人定死前駆、公惟恤吾事子其責』。忠烈泫然灌酒地曰『兄与諸将薰心誓是、徳臣何言』。所孤兄諸将託者、有如此酒。大駕至利、巡所治楼壁橋隍、歎曰『使吾非戍之敵先之、則四川領喉之地可必能歳月平哉』」
- ^ 『牧庵集』巻16便宜副総帥汪公神道碑,「遂移帥西南、攻剣関。関之西隘曰苦竹、隆慶府治。其上西北東三面嶄絶、深可千尺、猿猱不能遠以上下者也。其南一途、一人側足可登、不可並行、敵尽鋭禦者惟此。而帝勅諸軍攻未至某地、無張汝幟、自伐鼓督之。公前登、帝望幟張、倡偽歌呼、六軍和之、声動天地。隘之兵民飛崖如蝶、前是獲敵。張都統仗為蜀、反紿帝曰、吾能誘此柵、令遣降入行、則反為敵用、且世吾軍何地強弱、何倉豊餒、教使勿下。帝為書繋筒箭三、射入柵、令必生致、獲之、磔以徇、賚飽為両四百五十。潼川府治長寧山、攻復先登、賚銀如苦竹数、加以金幣、為匹二十七。復以軍東即嘉陵為舟行計、輿礟竿鉅絙以従。公奏無所事此、此前途所不乏者、不若舟米数千石。蓋此去多稲而求粟無有、宜虞以廩病者。時逢州壁運山、閬州壁大獲、順慶壁清居、広安壁大梁平破竹皆下東南抵合壁釣魚山渠江水会其下石邑入雲其帥王堅拠不即下、礮矢不可及也、梯衝不可接也。帝欲乗蒞高勢不棄去而必抜之、故久蹕此時暑我帥疫矣。忠烈卒于軍、公蒞集将佐議曰『吾李卒軍馬韋裹尸与国責塞、子惟正雖未弱冠宜也』。衆曰公言是、公言是、願奉以代即帥」
- ^ 池内 1986, p. 283.
- ^ a b 池内 1986, p. 285.
- ^ 『牧庵集』巻16便宜副総帥汪公神道碑,「其秋、帝崩。中統之元、制以公為副都総帥、従所志貳貞粛同戍清居。去順慶平土二十里、西北東三面環江、北江殊回遠、不可為池。南依而壁平可馬、馬上無大艱崎。其南即合敵出入吾界無時、于兵法為交池、公又子身受之。開屯田、練軍実、遥斥候、詗強鄰、入必摧環其軍、不令棄去。後詔貞粛還鞏昌、公独保成。三年、璽書褒大之、又換金符。三年秋、抄夔府、獲其団練使解恭・知府張甲及路分二人、斬刈千馘、獲遺甲仗宝幣不可貲計。入覲、賚以虎符・銀章・銀幣如長寧之数、而加金為両五十、副以鞍勒弓矢、衰其従者。且以久労于辺、代以忠恵、還之鞏昌、俾副統総帥。由行省受命還、得疾秦亭、帰志古漳故第而卒、年止四十八。其年六月、従葬古漳先域」
- ^ 『牧庵集』巻16便宜副総帥汪公神道碑,「便宜副都総帥忠譲公諱忠臣、字漢輔、便宜都総帥隴西義武公之冢嗣。便宜都総帥忠烈公徳臣・中書左丞忠恵公良臣・四川行枢密副使清臣之兄、故副都総帥惟益之考、中書左丞忠粛公惟正・今平章政事惟賢・中書右丞惟孝・参知政事惟勤・宣慰使便宜都総帥惟和・同知宣慰権総帥惟純・屯田万戸惟簡・万戸惟允・上千戸惟弼・知西和州惟敬・惟恭之伯考、今懐遠大将軍便宜都総帥安昌・永昌・必昌之祖、宣慰使元昌・副万戸朝昌・便宜都総帥寿昌之伯祖也。卒以至元丙寅四月五日、受諡于元貞二年丙申、推至義武卒年癸卯、実五十四年。祖孫一門、三世五公、又許連姻王室、自餘将相使牧為質猶十八人、此吾元有国而来所無者。嗚呼、不曰世臣之家、謂之何哉」
- ^ 『牧庵集』巻16便宜副総帥汪公神道碑,「為性安恬、出言質直如其心。事隴西郡夫人母包氏、以孝聞。友諸季、終其身、力竭才、羽異之、人無可間。総帥府属郡二十四、事至殷也、身自為与従父副弟副猶子三世時得専殺、未嘗妄笞一吏・殺一人。然至臨敵決戦、上馬挺槍離陣、先次巧捷若神、当者紛披、莫有我禦。其弓矢其中可方古人。憲廟出畋遇虎、命射之、一発断其吭。帝喜、至解所御金鞍為賜。夫人故金蘭定西会徳順五年、帥張雲之女惟益纔世副都総帥二年而卒。一女適鎮撫帥府張文煥、老将之共公者、毎曰公為人信厚、安昌必昌復信厚、可曰善世其家者。由安昌求銘公碑。燧思于公与貞粛所戍之地無不至焉。清居之不可恃為国者、前所以言楊氏張氏蒲氏皆行帥府、大獲運山大梁平故地与便宜、其時目曰四帥府。清居南迫合、独受敵鋒、為三帥扞蔽。他日専劉帥戍、移貞粛南九十里、夾嘉陵東西築武勝軍・母徳章両城、距合為里亦然。画則其邏設伏、嘗待進戦、夜則画地分守、伝警鼓柝、篝火照城達曙以防窃入。一話一言、敵尽知之、況敢抽兵邀利他求為哉。惟是軍当其堅重、故三帥反徳歳以抜敵柵塁、掠敵府庫、劉其人民逞志于忠涪夔黔万施雲安之間、上功朝廷、用事之臣第知三帥立労之多、而是府独寥寥也、終未有能明其然者。又貞粛去清居、敵夜大至、火民居、縛劉帥去、鑒大夫之失如此、則両公戍而克完者功不大哉。凡此或者貞粛碑所逸、故発之」
参考文献
- 汪忠臣のページへのリンク