汪世顕とは? わかりやすく解説

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汪世顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/08 13:27 UTC 版)

汪 世顕(おう せいけん、1195年 - 1243年)は、金朝およびモンゴル帝国に仕えたオングト人。は仲明。鞏昌府鹽川の出身。

概要

金朝仕官時代

汪世顕はテュルク系オングト族の出身で[1]、没年からの逆算により1195年(明昌6年)の生まれであったと推定される[2]。汪世顕は当初金朝に仕え、戦功を挙げて1214年(貞祐2年)には千夫長に任じられた[2]。このころ、モンゴル軍の侵攻によって追い詰められた金朝は在地諸勢力の取り込みに務めており、同貞祐2年10月には「諸色人」が武挙を受けることを許したとの記録がある[3]。汪世顕が金朝下で取り立てられたのも、このような政策転換が背景にあったと考えられている[3]

その後、同知平涼府事などを経て1227年(正大4年)には領隴州防禦使に昇格し、さらに征行従宜分治陜西西路行六部郎中の地位に遷った[2]。正大4年はチンギス・カン晩年の西夏遠征のさ中であり、西夏領に接する陝西方面もモンゴル軍の攻撃を受けていた[4]。汪世顕の征行従宜分治陜西西路行六部郎中という肩書はモンゴル軍の侵攻を受けた後の復興と防備の再築を意図したものと考えられている[4]

チンギス・カンの没後、金朝は防衛体制の再編を図る中で鞏昌州を陝西方面の中心と位置づけ、1229年(正大6年)に鞏昌州を鞏昌府に昇格し、汪世顕も同知兼参議とされた[5]。モンゴル軍による第二次金朝侵攻が侵攻する中、鞏昌府には完顔仲徳が知鞏昌府兼行総師府事として派遣され、1231年(正大8年)には鞏昌行省が置かれた[5]。この鞏昌行省に汪世顕も参画し、防衛体制強化のため周辺の民を石門山へ集めるなどの事業に従事している[5]。しかしトゥルイ率いる軍団の攻撃によって鳳翔府が陥落してしまうと、鞏昌一帯は首都の開封と分断されて孤立してしまった[5]

モンゴルへの投降

1232年(正大9年)に金朝が三峰山の戦いで大敗を喫し、首都の開封が包囲を受けるに至ると、汪世顕の上官である完顔仲徳は救援のために東方に向かった[6]。以後、鞏昌方面は汪世顕が「便宜総帥」として統べて存続を果たし、1233年(天興3年)には完顔仲徳が鞏昌への遷都を建議し、そのために粘葛完展が完顔仲徳の後任として鞏昌に派遣された[6]。しかし蔡州の陥落によって金朝が名実ともに滅亡すると、汪世顕は周辺勢力への従属を模索し始めた[6]1234年(端平元年)には、汪世顕は南宋への内附を求めて趙彦呐に接触したが、成立するに至らなかったとの記録もある[5][7]

一方、モンゴル帝国では1234年のクリルタイで東西に大規模な遠征軍(バトゥの西征軍、クチュの南征軍)を派遣することが決まり、その中で陝西・四川・チベット方面への侵攻はコデン(オゴデイの息子の一人)が担当することとなった[8]。このころ既に汪世顕はモンゴルに降ることを決意しており、上官であり最後まで投降に反対した粘葛完展を攻め殺した上で、1235年乙未)10月にコデンに投降した[9][10]。またこの時、当時14歳であった息子の汪徳臣は質子(トルカク)としてコデンに差し出されている[8]。なお、『元史』汪世顕伝などで汪世顕は最後まで金朝に忠誠を尽くした忠臣であると称えられるが、清代銭大昕などは上述の粘葛完展殺害などを挙げ、金朝に忠誠を尽くしたとは言えず、「主に背き利を嗜む」小人であったと批評している[11]。逆に、汪世顕からの誘いを断って最後までモンゴルに抗い、会州でアンチュルに攻め滅ぼされた郭蝦蟆は『金史』で忠義伝に立伝されている[12]

コデンの配下として

この後はコデンの配下に入って四川侵攻に従事し、嘉陵・大安に進出した。この時、田・楊の諸蛮がモンゴル軍の侵攻を阻もうとしたが、汪世顕は軽騎兵でもってこれを打ち破った。また曹将軍らの軍団を破って武信に入り、資州・普州にまで進んだ。南宋側は山に柵を築いて対抗しようとしたが、汪世顕は騎兵でもってこれを破り、資州・嘉定・峨眉を平定するに至った。開州に進んだ後、南宋軍が万州南岸に駐屯するのに遭遇すると、汪世顕は北岸で船を調達し、南宋軍に奇襲をかけて斬首3千余りを得る勝利を収めた。その翌年には重慶を包囲するも酷暑のため撤退を余儀なくされた。その後、オゴデイ・カアンの下を訪れ、歴戦の功績を讃えられたという[13]

1241年辛丑)の成都攻めでは蜀帥の陳隆之が守備を固めモンゴル軍は攻めあぐねたため、南宋軍の田顕が密かに投降する調略が進められた。汪世顕は陳隆之が田顕の寝返りを見抜いたことに気づくと、自ら城壁を登って田顕の投降を助けたという。これによって動揺した成都は陥落し、汪世顕は陳隆之を捕らえてこれを斬った。汪世顕はさらに精鋭500名を率いて漢州を攻撃し、これを陥落させた[14]

1243年癸卯)、陝西方面では汪世顕以外にもモンゴルに降った漢人世侯が何名かいたが、1243年(癸卯)までには汪世顕がコデン家の代理人とし、陝西西部一帯を管理するシステムが確立した[15]。このころより汪世顕は秦・鞏・定西・金・蘭・洮・会・環・隴・慶陽・平凉・順徳・鎮戎・原・階・成・岷・亹・西資等の24城を統括するようになり、その領域は「鞏昌二十四処」などと呼称された[16]。しかしこのころ既に汪世顕は病がちとなっており、それから間もなく49歳にして死去した[17][18]

息子には鞏昌便宜副総帥となった汪忠臣、汪世顕の地位を継いだ汪徳臣、鞏昌中路都総領となった汪直臣、汪良臣、アウルク兵馬都元帥となった汪翰臣、鞏昌左翼都総領となった汪佐臣、鞏昌左翼都総領、四川行枢密院副使となった汪清臣ら7人がいた[19]

脚注

  1. ^ 牛根 2001, p. 96.
  2. ^ a b c 牛根 2001, p. 90.
  3. ^ a b 牛根 2001, p. 94.
  4. ^ a b 牛根 2001, p. 92.
  5. ^ a b c d e 牛根 2001, p. 93.
  6. ^ a b c 牛根 2001, p. 98.
  7. ^ 『宋史』巻413列伝172趙彦呐伝,「趙彦呐、字敏若、彭州人。……端平元年、遂升正使、丞相鄭清之趣其出兵、以応入洛之役、不従。秦・鞏之豪汪世顕久求内附。至是彦呐為力請数四、清之亦訖不従」
  8. ^ a b 牛根 2001, p. 100.
  9. ^ 牛根 2001, p. 99.
  10. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「汪世顕字仲明、鞏昌鹽川人。系出旺古族。仕金、屢立戦功、官至鎮遠軍節度使、鞏昌便宜総帥。金平、郡県望風款附、世顕独城守、及皇子闊端駐兵城下、始率衆降。皇子曰『吾征四方、所至皆下、汝独固守、何也』。対曰『臣不敢背主失節耳』。又問曰『金亡已久、汝不降、果誰為耶』。対曰『大軍迭至、莫知適従、惟殿下仁武不殺、竊意必能保全闔城軍民、是以降也』。皇子大悦、承制錫世顕章服、官従其旧」
  11. ^ 牛根 2001, p. 87-88.
  12. ^ 『金史』巻124列伝62郭蝦蟆伝,「天興二年、哀宗遷蔡州、慮孤城不能保、擬遷鞏昌、以粘葛完展為鞏昌行省。三年春正月、完展聞蔡已破、欲安衆心、城守以待嗣立者、乃遣人称使者至自蔡、有旨宣諭。綏徳州帥汪世顕者亦知蔡凶問、且嫉完展制己、欲発矯詔事、因以兵図之、然懼蝦蟆威望、乃遣使約蝦蟆並力破鞏昌。使者至、蝦蟆謂之曰『粘葛公奉詔為行省、号令孰敢不従。今主上受囲于蔡、擬遷鞏昌。国家危急之際、我輩既不能致死赴援、又不能葉衆奉迎、乃欲攻粘葛公、先廃遷幸之地、上至何所帰乎。汝帥若欲背国家、任自為之、何及於我』。世顕即攻鞏昌破之、劫殺完展、送款於大元、複遣使者二十余輩諭蝦蟆以禍福、不従」
  13. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「即従南征、断嘉陵、擣大安。田・楊諸蛮結陣迎敵、世顕以軽騎馳撓之。宋曹将軍潜兵相為掎角、世顕単騎突之、殺数十人。黎明、大軍四合、殺其主将、入武信、遂進逼資・普。軍葭萌、宋将依山為柵、世顕以数騎往奪之、乗勝定資州、略嘉定・峨眉。進次開州。時方泥潦、由間道攀縁以達。宋軍屯万州南岸、世顕即水北造船以疑之、夜従上游鼓革舟襲破之、宋師大擾、追奔至夔峽、過巫山、与宋援軍遇、斬首三千餘級。明年、師還攻重慶、会大暑、乃罷帰。覲太宗、錫金符、易其名曰中山、且歷数其功、世顕拝謝曰『此皆聖明福徳所致、臣何預焉』」
  14. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「辛丑、蜀帥陳隆之貽書請戦、声言有衆百万、皇子集諸将議之、咸謂隆之可生擒也。世顕曰『顧臨敵何如、無庸誇辞為』。軍薄成都、隆之戦屢却、堅壁不出。其部曲田顕約夜降、降之覚之、世顕曰『事急矣』亟梯城入救顕、得与従者七十餘人出、獲隆之、斬之。世顕復簡精鋭五百人、擣漢州、州兵三千出戦、城閉、尽沒。三日、大軍薄其城、又三日、克之」
  15. ^ 牛根 2001, p. 103.
  16. ^ 牛根 2001, p. 101.
  17. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「癸卯春、皇子第功、承制拝便宜総帥、秦・鞏等二十餘州事皆聴裁決、賜虎符・錦衣・玉帯。世顕先已遘疾、至是加劇、皇子遣醫、絡繹往療、竟不起、年四十九。中統三年、論功追封隴西公、諡義武。延祐七年、加封隴右王」
  18. ^ 牛根 2001, p. 102.
  19. ^ 『元史』巻155列伝42汪世顕伝,「子七人忠臣、鞏昌便宜副総帥。次徳臣。次直臣、鞏昌中路都総領、歿於王事。次良臣。次翰臣、奥魯兵馬都元帥。佐臣、鞏昌左翼都総領、歿於王事。清臣、四川行枢密院副使」

参考文献

  • 牛根靖裕「元代の鞏昌都總帥府の成立とその展開について」『立命館東洋史学』第24号、2001年
  • 元史』巻155列伝42汪世顕伝
  • 新元史』巻142列伝39汪世顕伝
  • 国朝名臣事略』巻6総帥汪義武王



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