金朝との戦い
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1229年にチンギス・カンの三男のオゴデイが即位すると、オゴデイ即位に尽力したチャガタイは「皇兄」として厚遇され、アンチュルもまた元帥の地位を授けられた。西夏の攻略後、その旧領はチンギス・カンの諸子に分割相続され、ジョチ家が敦煌(沙州)一帯を、チャガタイ家が刪丹(山丹州)一帯を、オゴデイ家が西涼一帯を領地として得た。アンチュルは1228年にこの新領土の刪丹に派遣されたが、この年はモンゴル帝国の辺境各地にタンマチが派遣された年でもあり、アンチュルの派遣もその一環であったと考えられている。また、同年には敦煌から玉門関に至る地のジャムチ(駅伝)設置を行っている。 1231年(辛卯)にはオゴデイの金朝親征に呼応して陝西方面の鳳翔の包囲に加わり、アンチュルは投石によって攻城を阻む金軍に対し、決死隊を選抜して城壁を上り金将の劉興哥を討って城を陥落させた。鳳翔の陥落後は西和州に侵攻したが、ここは宋将強俊が数万の軍勢を擁する防備の整った地であった。そこでアンチュルは死士を選抜して丈平を挑発させ、これに怒った強俊が城を出た所で伏兵に城を攻撃させ、遂に西和州を下した。その後も余勢をかって平涼・慶陽・邠州・原州・寧州を攻略したが、その後涇州は後に再度背いたため、アンチュル配下の武将たちは城民を皆殺しにするよう主張したが、アンチュルはそのような意見を抑えて首魁のみを訣するよう指示したという。アンチュル軍が原州に帰還するとモンゴルに降った民が老人・子供を捨てて夜半に逃亡したため、アンチュルの部下たちは「これはモンゴルに対する反乱である。残された者たちを処刑してその他の住民への警告すべさである」と主張した。しかし、アンチュルは「逃れた者たちは我等にモンゴル高原に連れて行かれるのを恐れたのであろう」と述べ、逃れた者たちに使者を派遣して「汝らがもしこのまま逃れるならば軍法によって家族は残らず処刑とされるだろう。汝らがもし戻れば処罰はない。(我等のもとにもう一度起算するならば、)翌年牛や酒を用意して我が軍を出迎えよ」と論したため、逃れた民も戻ってきたという。また、豪民の陳苟が数千人を集めて新寨諸洞に立て籠もった時も、火をつけて皆殺しにすべきとする配下の意見を抑えて使者を派遣し、戦わずして投降させることに成功している。 1234年(甲午)に哀宗の死によって金朝が滅亡すると、アンチュルは鳳翔一帯で抵抗を続ける金の将軍郭斌の討伐を命じられ、会州に立てこもる郭斌を包囲した。食料が尽きた郭斌は城より逃れようとしたが、城門にてこれを待ち構えていたアンチュル軍と乱戦になり、多くの死傷者が出た。敗北を悟った郭斌は自らの妻子を一室に集めて火をつけ、自らも火中に身を投じて命を絶った。その後、火中から赤子を抱いた女奴隷があらわれ、泣きながらこれは郭斌の遺児であり、哀れんでこの子供を助けてくれれば幸いであると語って子供を渡し、自らは再び火中に身を投じた。これを聞いたアンチュルは惻然として子供の命を奪わないよう命じたという。その後もトルイ軍の先鋒として金軍との戦いを続け、1232年にはこの戦役における最大の激戦となった三峰山の戦いにも従軍した。 1235年にはオゴデイの次男のコデンが鞏州の汪世顕討伐を命じられたが、コデンはなかなか汪世顕を屈伏させることができなかった。そこでアンチュルが使者として汪世顕の下を訪れ説得したため、遂に汪世顕はモンゴルに投降してコデンの指揮下に入ることになった。この功績を称え、アンチュルはチャガタイよりバートルの称号と征行大元帥の地位を授けられている。
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