モンゴル高原中央部における攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 08:52 UTC 版)
「トク・テムル (ソゲドゥ家)」の記事における「モンゴル高原中央部における攻防」の解説
叛乱を成功させたトク・テムルはノムガンをジョチ・ウルスに、アントンをカイドゥ・ウルスに引き渡してこれらのウルスに協力を要請したが、トク・テムルらの予想に反してカイドゥやジョチ家諸王は中立を保ち援軍を派遣しようとしなかった。やむなくトク・テムルは「カイドゥとジョチ家諸王はすぐに援軍に来る」という虚言を以てオゴデイ系・チャガタイ系諸王を誘い、軍勢を整えた上でモンゴル高原中央部に侵攻した。そもそもモンゴル高原中央部から西部にかけてはトルイ・ウルスの領地であり、コンゴタン部のバイバクが抗戦して敗死したのを除いてほとんど戦うことなくモンゴル高原中央部を抑え、ケルレン河流域の「チンギス・カンの大オルド(先朝大武帳)」を掠奪した。 事態を重く見たクビライはトトガク率いるキプチャク軍団を急ぎ北上させ、他にも「左手の五投下」に属するイキレス部のクリルら、そして直前まで南宋征服に従事していたバヤンが「シリギの乱」討伐に動員された。同じ頃、モンゴル高原南部ではコンギラト部のジルワダイが「シリギの乱」に呼応して応昌を包囲しており、トク・テムルはその情報を聞くとジルワダイ軍と合流せんと南下を始めた。しかし、先行して北上していたトトガクがトク・テムル軍と接触、トク・テムルは自軍の斥候の騎兵数十名を捕らえられてしまったため、トトガク軍を警戒したトク・テムルは戦わずして退却していった。トク・テムルの退却によってジルワダイは孤立無援に陥り、別働隊の攻撃によってジルワダイの叛乱は鎮圧された。 ジルワダイの討伐後、トトガク軍、ジルワダイを討伐してきた諸軍、そして南宋遠征から急行してきたバヤン軍はモンゴル高原中央部に進出し、各地で反乱軍を破った。この頃、オイラト人のベクレミシュ率いる軍勢がトク・テムル軍と接触したことで「カイドゥとジョチ家諸王が援軍に来る」という言葉が虚言であったことが判明し、オゴデイ系・チャガタイ系諸王は一部を除いてこの時反乱軍から離脱したものと見られる。 トク・テムルらはトトガク率いるキプチャク軍の、ヨブクルらはバイダル率いるアスト軍の攻撃を受けてそれぞれトーラ河を撤退し、更に西に進んで反乱軍はオルホン河に集結した。同年8月、両軍はそれぞれオルホン河に布陣して対峙したが、シリギ軍の捕虜になっていたヤクドゥが内部から反乱軍を撹乱したことが決定打となり、トク・テムルら反乱軍は大敗を喫した。
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