「シリギの乱」の主導
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「トク・テムル (ソゲドゥ家)」の記事における「「シリギの乱」の主導」の解説
ノムガン軍はモンゴル高原を出発して中央アジアに趣き、アルマリクに駐屯した。アルマリクでの駐屯中、トク・テムルは狩猟中にシリギと密談し、遠征軍の中枢たるノムガンをアントンを捕縛するという叛乱計画を話し合った。更にトク・テムルはシリギをカアンに推戴することを餌に叛乱に誘い、この企てにモンケ家のサルバン、アリクブケ家のヨブクルとメリク・テムル、コルゲン家のクルタイら諸王は賛同し叛乱に荷担した。ただ、トルイの庶子のボチュクの孫のヤクドゥのみは叛乱に荷担することを拒んでシリギ、ヨブクル、トク・テムルらに攻められ、トク・テムルによって生け捕りにされたヤクドゥはシリギ軍の捕虜とされた。 ヤクドゥ以外の諸王の協力を取り付けたトク・テムルとシリギらは至元13年(1276年)冬、満を持してノムガン、アントンら遠征軍の中枢を奇襲して捕虜とし、これが以後6年にわたって大元ウルスを揺らがせる「シリギの乱」の幕開けとなった。 トク・テムルはシリギを叛乱に誘う時に「帝位(カアン位)は汝(シリギ)に到達している。[クビライ・]カアンは我々と我々の兄弟に対して、多くの不正を働いていたのだ」と語っており、クビライを簒奪者としモンケ-アリクブケの流れをくむ自らたちこそが正統なカアン位の継承者であるとするのがトク・テムルら叛乱軍の立場であった。また、「シリギの乱」勃発から間もなくクビライの下に「西北藩王(旧アリクブケ派の諸王)」から派遣された使者が訪れ、「モンゴルの風俗は漢法と異なるものであるというのに、[クビライが]漢地に留まり、都邑・城廓を建設し、漢法を用いるのは如何なる理由によるものか?」とクビライの統治方針を批判している。 以上のように、「漢化政策を実行しモンゴルの伝統を無視するクビライの打倒」と、「先帝モンケの遺児(シリギ)擁立によるモンゴル伝統文化の維持」こそがトク・テムルの掲げた大義名分であった。
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