「ナヤンの乱」における活躍とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 「ナヤンの乱」における活躍の意味・解説 

「ナヤンの乱」における活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/21 00:08 UTC 版)

トトガク」の記事における「「ナヤンの乱」における活躍」の解説

至元24年1287年)、オッチギン家ナヤンクビライ対す叛乱企みモンゴリア東方諸王密かに使者派遣し仲間引き込もうとした。当時ドゥルダカとともにモンゴリア駐留していたトトガクナヤンからカチウン家シンナカルコルゲン家エブゲン派遣され密使捕縛し、その企み尽く把握しクビライ報告した。後にシンナカルドゥルダカトトガクの2大将宴会招いて謀殺せんとしドゥルダカ当初これに応じようとしたが、トトガクが宴に行くことを止めシンナカル計画失敗終わったナヤン・カダアンの乱)。 至元25年1288年)には同じカチウン家ありながらシンナカルと袂を分かち叛乱与しなかったエジルが、叛王コルコスン攻撃晒される事態陥った。この報を聞いた皇太子テムル率い軍勢エジル救援のため動きウルゲン川にてエブゲン軍を破ったテムル軍はここから更にカラウン大興安嶺方面行軍しカダアン・トゥルゲンをも撃破したこの頃トトガクは自らが救ったエジル王の妹タルンを娶っている。 至元26年1289年)に入ると、今度晋王カマラ配下入ってハンガイ山脈方面カイドゥ軍勢と戦うことになったカイドゥ軍は先に戦場辿り着いて有利な陣地占拠しており、カマラ軍は苦戦強いられたものの、トトガク率いキプチャク軍のみが奮戦して敵陣崩しカマラ守って退却することに成功した退却中もカイドゥ軍の騎兵追撃してきたが、トトガク伏兵を置くことで追っ手撃退しカマラ軍は危地脱することができた。 至元31年1294年)に成宗テムル即位した後、朝会への出席免除され多く褒賞を受け、北辺駐屯した。元貞2年1296年)、カイドゥ配下多く王公たちが帰順すると、これを率いて京師入朝し、御衣様々な賞金与えられた。大徳元年1297年正月、銀青栄禄大夫上柱国同知枢密院事に封じられ欽察キプチャク親衛指揮使を拝命され北方帰る途中同年2月病死。「武毅」と諡され、延国公に封ぜられており、金紫光禄大夫司空追贈された。

※この「「ナヤンの乱」における活躍」の解説は、「トトガク」の解説の一部です。
「「ナヤンの乱」における活躍」を含む「トトガク」の記事については、「トトガク」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「ナヤンの乱」における活躍」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「ナヤンの乱」における活躍」の関連用語

「ナヤンの乱」における活躍のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「ナヤンの乱」における活躍のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのトトガク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS