「ナヤンの乱」における活躍
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「トトガク」の記事における「「ナヤンの乱」における活躍」の解説
至元24年(1287年)、オッチギン家のナヤンはクビライに対する叛乱を企み、モンゴリア東方の諸王に密かに使者を派遣し仲間に引き込もうとした。当時ドゥルダカとともにモンゴリアに駐留していたトトガクはナヤンからカチウン家のシンナカルとコルゲン家のエブゲンに派遣された密使を捕縛し、その企みを尽く把握しクビライに報告した。後にシンナカルはドゥルダカとトトガクの2大将を宴会に招いて謀殺せんとし、ドゥルダカは当初これに応じようとしたが、トトガクが宴に行くことを止め、シンナカルの計画は失敗に終わった(ナヤン・カダアンの乱)。 至元25年(1288年)には同じカチウン家でありながらシンナカルと袂を分かち叛乱に与しなかったエジルが、叛王コルコスンの攻撃に晒される事態に陥った。この報を聞いた皇太子テムル率いる軍勢はエジルの救援のため動き、ウルゲン川にてエブゲン軍を破った。テムル軍はここから更にカラウン(大興安嶺)方面に行軍し、カダアン・トゥルゲンをも撃破した。この頃、トトガクは自らが救ったエジル王の妹タルンを娶っている。 至元26年(1289年)に入ると、今度は晋王カマラの配下に入ってハンガイ山脈方面でカイドゥの軍勢と戦うことになった。カイドゥ軍は先に戦場に辿り着いて有利な陣地を占拠しており、カマラ軍は苦戦を強いられたものの、トトガク率いるキプチャク軍のみが奮戦して敵陣を崩し、カマラを守って退却することに成功した。退却中もカイドゥ軍の騎兵が追撃してきたが、トトガクは伏兵を置くことで追っ手を撃退し、カマラ軍は危地を脱することができた。 至元31年(1294年)に成宗テムルが即位した後、朝会への出席が免除され、多くの褒賞を受け、北辺に駐屯した。元貞2年(1296年)、カイドゥ配下の多くの王公たちが帰順すると、これを率いて京師に入朝し、御衣と様々な賞金が与えられた。大徳元年(1297年)正月、銀青栄禄大夫・上柱国・同知枢密院事に封じられ、欽察(キプチャク)親衛都指揮使を拝命され北方に帰る途中、同年2月に病死。「武毅」と諡され、延国公に封ぜられており、金紫光禄大夫・司空が追贈された。
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