「ナヤンの乱」戦後処理
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「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「「ナヤンの乱」戦後処理」の解説
ナヤンが処刑された翌月の7月には早くもクビライによる戦後処理が進められ、まずオッチギン家、カチウン家、コルゲン家がそれぞれ自らの華北投下領(オッチギン家は益都路と平灤路、コルゲン家は河間路、カチウン家は済南路)で任命していたダルガチを罷免した。 クビライによる「ナヤンの乱」の戦後処理について、『集史』「クビライ・カアン紀」は「(クビライは)彼等(東道諸王)の諸軍を分割し分散した」と記し、また「イェスゲイ・バートル紀」ではこの叛乱の首謀者であったシクドゥル、シンラカル、ナヤンらを処刑して彼等の軍隊を分割した結果、「現在、彼等のウルスには誰も生き残っていない」とも記している。しかし、『元史』などの漢文史料によると叛乱を起こした東道諸王らへの処遇は『集史』が伝えるほど重いものではなかったようで、首謀者の中でもシクドゥルは死刑を免れており、また先祖伝来の遊牧地も没収されずそのままとされている。『集史』の伝える「(東道諸王の)軍隊の分割・解散」についても、元ナヤンやシンラカル所属の兵の一部が江南へ配流とされて水軍に転用された記録はあるが、それも一部に留まっていた。総じて東道諸王のウルスは叛乱勃発以前と変わらぬままで存続を許されたようで、実際にナヤンの息子遼王トクトアは父同様に傲慢に振る舞い、主に漢人官僚からオッチギン・ウルスの廃止論が唱えられるまでになっている。 一方、クビライがナヤンの処刑後にまず行ったとされるのが、叛乱首謀者たる各王家の当主すげ替えであった。オッチギン王家では唯一クビライ側に味方した庶流のナイマダイが新たな当主となり、カチウン家ではエジルが、カサル家ではバブシャが新たな当主に任命された。このように東道諸王たちに対して寛大な処分が示されたのは、ナヤンの処刑後もカダアンを始めとする抵抗勢力が各地に残っていたこと、またナヤンの乱に呼応するべく活動を始めていた西方のカイドゥに備えなければならなかったことなどから、速やかな東道諸王との和解と事態の収拾・沈静化が必要とされたためであると考えられている。ただし、この戦後処理案に対する不満が反乱軍の抵抗=「カダアンの乱」を引き起こし、長引かせてしまったと考えられている。
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