回鶻を滅ぼし可汗国となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:08 UTC 版)
回鶻可汗国が衰えると、阿熱はすぐさま可汗(カガン)を称した。その母は突騎施(テュルギシュ)の娘で母可敦(皇太后)となる。妻は葛邏禄葉護(カルルク・ヤブグ:カルルクの君主)の娘で可敦(カトゥン:皇后)となる。 開成5年(840年)頃、渠長(きょちょう:将軍)の句録莫賀(句録末賀、キュリュグ・バガ)は、北の黠戛斯(キルギス、Qïrqïz)軍10万騎を招き寄せて回鶻城(オルド・バリクか?)を破り、㕎馺可汗 と掘羅勿(キュレビル)を殺してその牙帳 を焼き払った。これによって回鶻可汗国は崩壊し、国の有力者たちは各特勤(テギン:皇子)を奉じて各地に散らばった。そのうち、可汗庭(かがんてい:可汗の牙帳)近くの13部は、烏介特勤(ウゲ・テギン、Ügä Tägin)を可汗に推戴し、南の錯子山に割拠した。途中、烏介可汗らは太和公主を唐まで護送する黠戛斯の達干(タルカン、Tarqan) らと遭遇した。烏介可汗はそれを見つけるなり達干らを殺し、太和公主を奉じて代わりに唐の天徳界まで護送してやった。 会昌年間(841年 - 846年)、阿熱は使者を見殺したため、しばらく入朝せずにいたが、ふたたび注吾合素 を遣わして上書言状した。武宗(在位:840年 - 846年)は注吾合素らが3年かけて京師にたどりついたことに大いに悦んだ。この頃、烏介可汗の余衆が室韋(黒車子)に亡命していたので、阿熱は回鶻の残党討伐を願い出た。武宗は右散騎常侍の李拭を黠戛斯に遣わし、君長を冊立して宗英雄武誠明可汗とした。しかし、使者が到着しないうちに武宗が崩御してしまう。代わって宣宗(在位:846年 - 859年)が即位すると、大中元年(847年)、武宗の卒詔で鴻臚卿の李業に節を持たせて黠戛斯阿熱を冊立して英武誠明可汗とした。 大中2年(848年)春、回鶻の遏捻可汗のもとには名王貴臣の500人しかいなくなったため、彼らは室韋に依ることにした。しかし、張仲武が遏捻可汗らを捕えるべく黠戛斯などを室韋に向かわせたため、遏捻可汗は懼れて妻の葛邏禄(カルルク)と子の特勤毒斯ら9騎だけを連れて夜に西へ逃亡し、行方をくらました。室韋は回鶻の余衆を分けて七分とし、七姓室韋は各一分を占領した。そこへ黠戛斯宰相の阿播が領する諸蕃兵7万が遏捻可汗および諸回鶻人を捕えるべく室韋に攻め込んできた。室韋は阿播の軍に大敗し、回鶻人ともども黠戛斯の略奪を受けた。
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