因伯立志人物(大正四年、鳥取佛教靑年會編纂)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:41 UTC 版)
「坂口平兵衛 (初代)」の記事における「因伯立志人物(大正四年、鳥取佛教靑年會編纂)」の解説
事業 坂口平兵衛坂口平兵衛は安政元年を以て西伯郡米子町に生れました。幼い時に今井方斎の門に入って漢籍を修めましたが、年僅かに十三歳の時から家政に与(あずか)り、父を扶(たす)けて商業を励みました。明治十四年に至つて父が死去(なく)なつたので家督を継ぎ、父の名を襲うて平兵衛と改めたのであります。 平兵衛は一意専心に家運を隆(さかん)にしようと志し僅か十余年にして資産を増殖し明治二十三年には既に県下多額納税者互選資格を備える様になりました。又明治二十一年米子漁商株式会社長に、同二十四年米子汽船会社長に、米子製糸合名会社長に、県勧業諮問会員に、米子商工会頭に、同二十六年米子米穀取引所理事に、同二十七年米子銀行頭取に、同二十八年山陰生命保険会社監査役に、同三十年郡会議長に、貴族院議員に、地方的団体として勢力ある丁酉会長に、同三十四年米子倉庫会社監査役に推されたことによつて見ても如何にその信用と名望とを高めて居るかを知ることが出来ませう。 平兵衛は温順で忍耐力強く、そして、実業界に活動して居ることは県下稀に見る所であります。現今製糸業、製鉄業、酒醤油製造業等を営んで居ます。 前年政府より米国実業調査員に選ばれて、渋沢男爵以下四十余名と共に米国の各地を巡覧したことがあります。大正三年、六拾一才にて還暦祝に際し県下教育界に金一万円を提供して中等教育を終れるも学費なく高等教育を受けんとする前途有望の青年の学資金に寄付せられたのはまことに見上げたことであります。
※この「因伯立志人物(大正四年、鳥取佛教靑年會編纂)」の解説は、「坂口平兵衛 (初代)」の解説の一部です。
「因伯立志人物(大正四年、鳥取佛教靑年會編纂)」を含む「坂口平兵衛 (初代)」の記事については、「坂口平兵衛 (初代)」の概要を参照ください。
- 因伯立志人物のページへのリンク