ヤグラカル氏の断絶とエディズ政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「回鶻」の記事における「ヤグラカル氏の断絶とエディズ政権」の解説
貞元11年(795年)2月、奉誠可汗が死去し、子がいなかったため、国人たちは宰相である阿跌(エディズ)氏の骨咄禄(クトゥルグ)を立てて可汗とした。彼は6月に唐から懐信可汗(在位:795年 - 805年)に冊立されるが、これによって回鶻の薬羅葛(ヤグラカル)政権が終わり、阿跌(エディズ)政権が始まったことになる。懐信可汗はマニ教を再び受容し、西方からの文化を受け入れていった。この後、マニ教は回鶻可汗国の国教になっていく。
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